真水稔生の『ソフビ大好き!』


第160回 「正体なんて、どーでもいい」  2017.5

昨年のちょうど今頃、
鳥取県は境港の
水木しげるロードへ出かけたのですが(第149回「ソフビ妖怪散歩」参照)、
いろんな妖怪たちのブロンズ像が建ち並ぶ、
怪しくも心が和むその不思議な通りを歩いていたら、
ふと、こんなものに出くわしました。


歩道の端に、
唐突に、そして当たり前のように
置かれていたのですが、
砂かけ婆のブロンズ像からは離れた場所でしたし、
見たところ、ただの砂で、
何か仕掛けがあるわけでもなさそうでしたし、
意味も意図も解らず、

 なんじゃ? これ・・・、

って思いました
(お供の油すまし人形も戸惑いの表情をしています(笑))。

ガイドマップにも、
こんなオブジェがある事は一切記されておらず、
言わば、“正体不明” だったのです。
 

でも、
手作り感満載の、
その粗放な情調がなんとも優しく懐かしく、
何やら積極的で開放的な、
“陽性” のエネルギーみたいなものを感じて、
すぐに楽しい気分になりました。

 おぉ、これぞ、妖怪の妙味!

と、
妖怪の聖地へやってきた事を実感したのです。

だって、
“正体不明” で “陽性” は、まさに妖怪の特徴ですから。
とても興味をひかれました。

ただ、
名古屋の自宅に帰ってきて数日後、
すぐに “正体不明” ではなくなりました。

ちょっとしたニュースにもなりましたので
御存知の方も多いと思いますが、
これは、
街路樹が枯れた事によって出来てしまった地面にくぼみを
安全のため砂で埋めた際、
その作業を行った鳥取県の職員の方々が、

 “水木しげるロード” と “砂” 

に因み、
ちょっとした遊び心で立てた看板だったのです。

僕と同じように、

 なんじゃ? これ・・・、

って思った人がいたようで、 
誰かがツイッターに写真付きで紹介した途端、
たちまち約1万2千件もリツイートされて、
大きな話題になった、という次第。


けれど、
正体が判り、

 なるほど、そういう事かぁ・・・、

と納得したからといって、
“妖怪” を感じていた僕の興味が醒める事はありません。
なぜなら、
“正体不明” のほかにもうひとつ、
“陽性” という、妖怪の特徴が残っているし、
しかも、
その “陽性” こそが、
妖怪を味わい楽しむ上で、最も重要なファクターとなるからです。

何か奇怪で異常な現象に遭遇した時、
正体不明のままでは怖いので、
先人たちは、
それを妖怪のせいにして納得し、時には笑い飛ばし、
明るく元気に生きてきました。
“家鳴り” しかり、“かまいたち” しかりです。

大自然を畏怖しながらも
心穏やかに、そして愉快に、
毎日を幸せに生きていこうとする、人間の知恵ですね。
ゆえに、
妖怪は “陽性” なのです。

以前、第52回「いるかもしれない」の中でも述べましたが、
妖怪というのは、
そもそも、

 “いる” か “いない” か、

を問題にするのものではなく、

 “いるかもしれない”

と思って楽しむもの、感じるものです。

正体なんて、どーでもいいンです、極論を言っちゃえば。

民間伝承・文化風土の上に生まれ形成されてきた以上、
妖怪には、
必ずルーツがあります。
某かの “正体” はありますよ、そりゃあ。

“砂かけ婆” という妖怪自体の正体も、

 木に登ったタヌキが砂をまいたものだ、

とか、

 空を飛ぶ鳥が体に付着していた砂を払い落としたものだ、

とか、
諸説ありますが、
どーでもいいでしょ? そんなつまらん事・・・。

それより、

 遭遇した人は、
 なんで砂をかけてきたのが “お婆さん” だと思ったのか、

って事を考えたり、
森や林に、
砂をかけてくる動物がいる事よりも
砂をかけてくるお婆さんがいる事を想像したりした方が、
断然面白いですから。

・・・怖いだけか(苦笑)。


妖怪の正体を、
科学的に調査して突き止め、
論理的に説明する事も必要な事ですが、
正体が判明したからといって、そこで妖怪を否定してしまっては、
能がありません。

妖怪へのアプローチは、
民俗学の観点を持つ事が大切です。
前述した、
正体不明のものを妖怪のせいにして生きてきた先人の知恵ですね。
そこを理解しようとすれば、
郷土の歴史にロマンを感じて、
人間の可能性を再確認する事が出来、
命に対する感謝の気持ちが湧いてきます。
心が潤い、人生が楽しくなるのです。
それが妖怪の価値。

水木しげる先生は、
戦争中にニューギニアのジャングルで、
目には見えない壁のようなものに阻まれて
前方に進めなくなる、という怪異な体験をなさっていますが、
普通に考えれば、

 神経障害もしくは何かの中毒症状のせいで歩行困難に陥った、

という解釈になるでしょう。
異国の真っ暗なジャングルの中、
しかも、
敵軍に追われてここで命を落とすかもしれない、
という、言わば極限状態での事ですしね。

けれど、水木先生は、 

 柳田国男さんの文献にもある、
 古来伝承されていた “塗壁” という現象と同じだった、

と実感されました。
幼少の頃から妖怪に興味を抱き、
先人の知恵の素晴らしさを
充分に理解されていた水木先生ならではの感性でしょう。

そしてそれは、のちに、
『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する “ぬりかべ”、という
愛すべきキャラクターを生み出し、
何世代にもわたって、多くの人々を楽しませ喜ばせていく事になりました。

つまり、
人間が幸福に生きていくためには、
“妖怪の正体” を知る事よりも、
“妖怪の存在理由” を知る事の方が重要だというわけです。

冒頭の “砂かけ婆の砂” に話を戻せば、
正体は
“歩道のくぼみを砂で埋めた” という行政の仕事だったわけですが、
問題なのはそこではなく、
それを単に行政の仕事として片付けず、
妖怪に結びつけて楽しもうとした、その洒落っ気。
その発想と行動を、
面白い・素晴らしいと感じる知性が、大切なのです。

何百年もの昔と違って妖怪を感じ難い現代ではありますが、
人々の心にそういうユーモアのセンスがある限り、
社会が干からびる事は無いでしょう。
僕はそう思います。

ただ、残念なのは、
あまりに反響が大きくなり過ぎたため、
結果的に、看板が撤去されるという事態に発展してしまった事。

境港市の観光協会や水木プロダクションなど各関係機関に
何の許可も取らず、
勝手に設置してしまったものゆえ、
庁内で協議した結果、“不適切” という事になったそうです。

まぁ、
いろいろ事情があるンでしょうけど、
なにも撤去する必要は無かったと思うンですけどねぇ・・・。
あれを見て気分を害する人がいるとも思えないし、
それこそ何処かから抗議が来たわけでもないのだし・・・。

だいたい、
“不適切” ってのが、よく解りません。
あれが、
“砂かけ婆の砂” でなく、
“猫娘のトイレ” とでも書かれていたなら、
そりゃあ “不適切” でしょうけど・・・(笑)。


それにしても、
設置されたのがゴールデンウイーク前で、
撤去されたのは5月末。
たった1ヶ月あまりしか存在しなかったわけで、まるで幻のよう。

・・・ってか、やっぱ、妖怪だな。

そんなものに実際に遭遇出来たなんて、
我ながら、
なんとも良いタイミングで水木しげるロードへ出かけたものです。




ところで、
水木先生が遭遇した塗壁によく似た現象に、
“野襖(のぶすま)” というものがあります。
高知県に伝わる、
夜道の行く手に突然と壁のように立ちふさがる妖怪ですね。

そして、関東には、
これと読みは同じで漢字が異なる、
“野衾(のぶすま)” という妖怪が伝わっています。
この野衾、
江戸時代の絵師・鳥山石燕さんの妖怪画集『今昔画図続百鬼』にも載っているのですが、
面白いのは、

 野衾はむささびの事なり、

と解説されちゃってる事。

妖怪の画集で、

 これは妖怪じゃなくて動物ですよ、

って正体が明かされちゃってるンです。
しかも、江戸時代に、すでに。

妖怪を感じる・味わう際には、
正体なんて、やっぱ、どーでもいい事の証ですね(笑)。

ムササビは、
夜行性の動物ゆえ、
夜の闇の中を滑空する様は、
昔の人には
それこそ妖怪と解釈してしまうほど怖くて異様なものであっただろうし、
人間の持つ松明や提灯の光に目がくらんで
突然顔の前に落ちてきて進行を妨げる事もあったようで、
滑空時の皮膜を広げたその姿が
まるで “通せんぼ” しているかのように見えた事も相まり、
行く手を阻む高知県の野襖と混合され、
それが野衾という妖怪として伝承されてきたのではないか、と僕は思います。

野衾の正体がムササビだった、
なんて事実より、
ムササビを知らない昔の人がムササビと遭遇した際にどう思ったか、
また、それをどう伝えてきたか、
そういう、人間の想像力が刺激された経緯に興味を持った方が
絶対に楽しいのですよ。

妖怪は、そのためにいるのですから。


・・・というわけで、
今回は僕のソフビコレクションから、ムササビードルをピックアップ。

  『仮面ライダー』に登場したムササビの怪人。
ムササビを化け物だと人間が勝手に思い込んだ野衾と異なり、
こちらは、
ショッカー科学陣の改造手術によって生み出された、
正真正銘の(笑)、ムササビの化け物です。
 
 



バンダイ製 スタンダードサイズ、全長約23センチ。 


憎たらしいような可愛らしいような、
この、絶妙な表情をしている顔の造形が絶品。
悪者キャラクターの人形として、実に優良な玩具だと思います。
       
 
   ムササビードルは、
 皮膜を広げて滑空する際、
 真空状態を生むスリップ・ストリーム現象を誘発し、
 それによって近くにいる人間の内臓を破裂させる恐ろしい怪人ですが、
 それよりも、
 僕がこの怪人でいちばん印象に残っているは、
 正面から喰らうのが常のライダーキックを
 空中で背中に浴びて果てた、あの、なんだか無様な最期。 
 

   絵面として
 決してカッコいいものではなく、
 エンターテイメント性が希薄なのですが、
 それが、
 闘いのリアリティや怪人という存在の物悲しさを、強調している気がして、
 幼心に『仮面ライダー』の世界の深みを感じたのです。 

 そんな、
 僕の中では “哀愁” を帯びた怪人でありながら、
 『仮面ライダー』放映時に発売されていた人形は、
 スタンダードサイズが、
 このように灼熱の太陽を思わせるようなカラーリングだし、
 ミニサイズの人形も、
 下記のように鮮やかなカラーバリエーションが豊富で、
 “哀愁” なんて微塵も感じさせない、明るく元気なイメージ。
 正体不明の恐怖を
 “妖怪” という解釈で楽しめるものにした先人の知恵と、ダブります。

 もしかしたら、
 ムササビがモチーフの怪人だけに、野衾が玩具開発担当者に取り憑いて、
 子供たちの心に
 “人生を楽しく生きる術” を植え付けさせようと、導いたのかもしれません。
 ・・・深いなぁ、アンティークソフビ(笑)。
    バンダイ製 ミニサイズ、全長約11センチ。

茶色の成形色に黄色を吹いたり、
黄色の成形色にオレンジ色を吹いたり、
赤の成形色に、
紺色と銀色を吹いたり、黄色を吹いたり・・・、と
なんか、
色で、メーカー側が自由に遊んでいるよう。

また、
下半身も、
獣毛が、
モールドしてあるものと
モールドしてないものがあり、
集め甲斐があるし、
ほかにもまだ
バージョン違いがありそうな気もして、
怪人ミニソフビの真骨頂、といった感じです。
   



『仮面ライダー』放映当時、僕はもう小学生でしたので、
その世界が虚構のものである事は
当然理解していましたが、
それでも、
神社や雑木林の近くを通れば、
戦闘員や怪人が現れて襲ってくるような気がして、
ドキドキと胸が震えたものです。

つまり、
子供の頃からすでに、

 “正体なんて、どーでもいい”

って事が、本能で解かってるンです、人間は。

仮面ライダーも怪人も、
役者が演じているだけで実際にはこの世にいない、
と知っていながら、
その夢の世界に素直に酔えたあの純真さ・・・。
あの感覚なンです、愛おしいのは。
あの意識なンです、忘れたくないのは。
もちろん、
大人になっても変わらずそれを持ち続けるのは不可能ですが、
少しでも、あの頃に近い感受性でいたいンです。

そんな心の働きが、
僕をソフビ蒐集に掻き立てるのだと思います。
子供の頃のオモチャや
子供の頃のキャラクターを追い続ける事で、
つまらない大人になる事を自分自身に拒否しているンですよね。
もう50過ぎなのに・・・(苦笑)。

でも、そのおかげで、
妖怪の価値が解る、妖怪を楽しく味わえる、
心に潤いのあるい人生を送れている気がします。

・・・え?
ただバカなだけだろ、って?

うるせェ!
バカって言う方がバカだ! ←こういう返しも、子供の頃のまま(笑)。








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