真水稔生の『ソフビ大好き!』


第52回 「いるかもしれない」  2008.5

霊とか妖怪とかは、愛すべきものである。
自然を、地球を、宇宙を、その神秘に惹かれながらも畏怖し、人間の生命を尊く思う。
霊とか妖怪とかはそのために存在している、と僕は捉えている。
神様と同じなのだ。

“いる” か “いない” かではない。
そんな事はわからない。
でも “いてほしい” から、僕は、“いるかもしれない” と思うようにしている。

だから、
先祖や両親のお墓だけでなく、道端で見かけたお地蔵さんにも、手を合わせる。
日本人の、ごくごく普通な宗教的心情だと思う。

目には見えないけれど、
霊も妖怪も、そして神様も、
自分の近くに、あるいは自分の中に、いつもいる、
そう思っている方が、楽しいし、毎日を心穏やかに暮らせる。
それで良いのだ。

罰が当たったり祟りがあったり、恐い面も確かにあるけど、
だからこそ、
人の心を支えてくれたりする力があるのだと思う。

科学は素晴らしいものだ。
科学的に証明出来ない事は、別に信じなくても良い。
でも、
科学的に証明出来ない=存在しない、とは言い切れないと思う。
昔から様々な体験談があるのだから、
それら全てを “偶然” とか “勘違い” とかで片付ける事なんて出来ないだろう。
科学で証明出来ない事だって、あると思うし、
人間は物事すべてをコンピュータのように0か1かで片付けられるほど完璧ではない。
曖昧なものなのだ。
“いる” か “いない” か、なんて決められるわけがない。
それが証拠に、
「科学で証明出来ないものは信じない」と主張する人だって、
お墓を蹴飛ばしたり、仏壇や神棚にいたずらしたりは、恐くて出来ないはずだ。
それで良いのだ。
いるかいないかわからなくても、なんとなく恐れている。
霊とか妖怪とか神様とは、そういうものなのだ。


最近、“霊能者はインチキか?” という事がいろんな所で話題になっているが、
まったくもって、どうでもいい話だ。
その霊能者が言ってる事が本当か嘘かなんて、どれだけ考えたって判りっこないし、
科学的にそれをインチキだと暴いたところで、無駄である。
本人が「見える」「感じる」と言ってるものを完全に否定する事など不可能なのだから。

もしも、
その霊能者がインチキで、それに騙されて被害に遭う人を救いたいのなら、
第三者が科学で立ち向かうのではなく、
当事者に、
インチキに騙されないよう、霊的なものに対する考え方を改めさせなければ、
解決の道は開けないと思う。

ちょっと哲学的な言い方をさせてもらうと、
信じるべきは “霊能者” ではなく “霊魂” である、という事だ。
最終的に自分を救えるのは、自分しかいない。

霊能者なるものがインチキかどうかは、僕にはわからない。
だけど、これだけはわかる。
インチキに騙された、などという哀しい事態は、
霊が “いる” とか “いない” とか言い出すから、起きる事なのだ。
冒頭で述べたように、
“いるかもしれない” って思っていれば、なんでもない事である。
“いるかもしれない” って事は、“いないかもしれない” のだから、それ以上でもそれ以下でもない。

霊能者の言う事からは、
人生を優しく穏やかに生きていくためのヒントをもらえばいいだけの事で、
それによって自分の人生を左右する必要は無い。
だって本当か嘘かわからないンだから。


僕はコレクターだから、当然 “物” には固執する。
“物” に込められた思いや、
“物” が発する力みたいなものを、人一倍大切に思う。
僕が集めているのは、
たとえ怪獣と言えど “人形” だし、
自分が幼い頃のものが何十年という時を経て存在しているのだから、
それをただの “物” として扱う事は出来ない。
精気のようなものを感じてしまうのだ。
たとえそれが単なる思い込みであったとしても、
その事によって人形を愛し大切に思うのだから、悪い事ではないだろう。

物には精霊が宿る、という日本古来の伝承は、
“物を大切に” という教えにも繋がるし、ロマンだってある。
そういうものを否定したって、何も楽しくないし、誰も幸せにならない。
いるかもしれない、と思って生きていけば良いのだ。


たとえば、

「お盆の時期には、霊に連れていかれるから海に近づくな」

という迷信があるが、
これは、時期的に土用波の影響で海水浴中の事故が多いため、
その自然の原理がわからない昔の人が霊と結びつけて考えたものであり、
そこには、
事故を防ぐための策と合わせて、
先祖に感謝する心を育ませようと考えた “知恵” も含まれている。

実に素敵な文化だと思う。
ただ単に土用波の影響だと捉えているよりも、
霊と結びつけて考えていた方が、
心豊かにその時期を迎え、心穏やかにその時期を過ごす事が出来るだろう。

肝心なのは、
霊が “いる” か “いない” かをはっきりさせる事ではなく、
“いるかもしれない” という気持ちを持つ事なのだ。

霊感とか霊的能力とか、そういったものが僕には一切無いので、
幽霊を見た事もないし妖怪を感じる事も出来ないけど、
そういったものがいる、という事を信じたい。
信じた方が
楽しいし、落ち着くし、優しくなれる。

両親は死んじゃってもういないけど、
ただ “いない” と思うより、“どこかで僕を見守ってくれている” って思ってた方が、
心温かく生きていける気がする。
“死” という超えがたい断絶を納得し、元気に生きていくための方法でもあるのだ。

人間、ってそういうものではないだろうか。
何かを信仰して心の支えにしていなければ、生きていけないと思う。
特定の教団に属して教義を学ぶ、という事をしていない僕のような者でも、
心のどこかで、何か霊的なものをより所にしているのだ。

でも、
それは決して、現実逃避してそういうものによりかかって生きていくという事ではない。
心の重石として必要なのだ。

どうしてあの時あんな事を言ってしまったのか、なぜあんな態度をとってしまったのか、
自分でもよくわからない事をしてしまうのが人間である。
間違いもするし、矛盾もある。
そんな不完全で不安定な、か弱い生き物が、
命の重みを知り、孤独に打ち勝ち、優しい気持ちで幸せな人生を送るには、
人智の及ばぬ力を持った存在が、心の中に必要なのである。
迷ったり悩んだり傷ついたりして心がふらついた時に、そのまま倒れてしまわないように、
魂を支えていてくれる重石として、霊的なものは必要なのだ。



御存知、大魔神。
神をも恐れぬ悪人を成敗したこの荒ぶる姿が
僕の宗旨の土台になっている、
と言っても過言ではない。
超自然への畏怖心を持たない驕れる人間に
祟りをもたらす妖怪たちと一緒で、
異次元に、
あるいは精神の中に、
人間を見守りながら棲むものの概念を、
幼い僕の心に美しく植えつけてくれたからである。
つまり、
霊的な存在を
“いる” でも “いない” でもなく、
“いるかもしれない” と思う事の楽しさを、
大魔神は教えてくれたのだ。


その大魔神シリーズの
映画が公開されていた昭和41年に
マルサンから発売されたこのソフビ人形は、
デフォルメ造形でありながら、
このように、
顔の表情や腕の形状などによって
怒りや迫力がしっかりと表現されているので、
大魔神の魅力が損なわれる事なく
子供のオモチャとして見事に成立している。
さすがマルサン、といった人形だ。

全長約24センチ、
いわゆるスタンダードサイズだが、
他のサイズではソフビ化されなかった。
残念である。
ミニサイズがあれば “御守” として携帯し、
ジャイアントサイズであれば、
“魔除けの人形” として玄関などに飾る、
なんて楽しみ方も出来たのになぁ。



霊や妖怪には、悪意は無い。もちろん神様にも。
人間じゃないンだから、当然であろう。
もしも悪意を感じるのなら、
それは己の心に原因があるのだと思う。
全ては、この世で生きている人間側の問題だ。人間次第なのだ。

霊や妖怪や神様を恐く思うのは、
人間が清く正しい生き物ではないからである。
だから、
霊的なものを否定する事は、人間は完璧な生き物だと驕り高ぶる気持ちを持つ事につながり、
危険な発想を生み出しかねない。
かといって、
科学的根拠や証拠が無いものを肯定するわけにもいかない。
どうすれば良いか。
“いるかもしれない” と思っていれば良いのだ。
肯定も否定も、する必要は無い。すべきでない。そんな事、人間には出来ない。
“いるかもしれない” と思って、
出来るだけ清く正しい心を持つように心掛け、温和に生きていけば良いのである。

“命” を大切に思い、自分が存在している事に感謝し、優しい気持ちで生きていこうとする人間に、
霊や妖怪や神様はいつか微笑みかける。
そういものだと僕は信じている。


以前、テレビドラマ『3年B組金八先生』を見ていたら、金八先生がいい事を言っていた。

 「(自分の運命を)運命の神様に聞くな。運命の神様に答えなさい」

素晴らしい言葉だと思う。
“いる” か “いないか” なんてどうでもいい。
この世に生まれてきた以上、出来る限り正しく美しく、毎日を精一杯過ごすだけの事だ。

霊や妖怪や神様がもしもいるのなら、
そんな自分をせいぜい見てもらって、いつか人生を全うした時に褒めてもらえばいいし、
いないのだとしても、
そうやって一生懸命に生きる人生は決して間違いではない。素敵なものだ。

霊や妖怪や神様が、
どこかに “いるかもしれない” と思って、
人は、毎日を楽しく、心豊かに生きていけば良いのである。



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