真水稔生の『ソフビ大好き!』



第49回 「子供に観せたい特撮ヒーロー番組」  2008.2

健全なものが好きだ。
清々しい青春ドラマ、温かいホームドラマ、美しい恋愛ドラマ・・・、
そういった明るく楽しいテレビ番組や映画が、僕は大好き。
子供向けの作品となれば、なおさらである。

以前に『快獣ブースカ』『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』を愛してやまない事を述べたが、
特撮ヒーロー番組では、
基本的に “悪との戦い” が描かれるので、
そういったほのぼのとした世界観の作品は作り上げにくいと思う。
だけど、ひとつだけ、
特撮ヒーロー番組なのに、
爽やかな風と光を僕の記憶の中に残している番組がある。

それは、『小さなスーパーマン ガンバロン』。
小学生の少年が、
世界的科学者だった祖父が遺したバロンパーツを体に装着することによってガンバロンに変身し、
ワルワル博士が巻き起こす騒動から人々の平和を守る物語で、
勇気とか正しい心とか、
あるいは、友情とか思いやりとか、
そういったものの大切さや美しさがしっかりと描かれた、
実に清らかなテレビドラマであった。
昭和50年代初頭に日本テレビ系で放映されていた、特撮少年活劇である。

ヒーローものなので、当然、“悪との戦い” が描かれるわけではあるが、
悪役であるワルワル博士の目的は、
地球侵略とか世界征服とかではなく、ただの嫌がらせ。
偏屈で意地悪な性格から、ただ嫌がらせをするだけなのである
(嫌がらせで、街を破壊したり人を襲ったりされても困るのだが(笑))。

よって、
この作品で描かれる “悪との戦い” は、
アンパンマンとバイキンマンの戦いみたく、
童話のようなワールドで繰り広げられる他愛無いものであり、一種のメルヘンだった。

・・・まぁ、“ガンバロン” と “ワルワル博士” が戦うのだから、
ネーミングからして、
恐怖や迫力の要素が存在しない事は窺い知れるだろう。

でも、そこが新しくて良かった。
従来の特撮ヒーローもののような “見応え” や “カッコよさ” を望むと、
確かに失笑してしまう内容ではあったが、
そこには、
子供の健やかな心の成長を願い、
凛とした姿勢で番組制作に取り組む “作り手の魂” が感じられたのだ。
そして、それこそが、
この作品の存在理由であり、番組の価値なのだと思った。

むごたらしいものや醜いものが全く無い、
暗さや毒がとことん排除された、
その新鮮で画期的な特撮ヒーロー番組『小さなスーパーマン ガンバロン』に、
当時中学生だった僕は、心惹かれたのである。

生意気な年頃だった事もあり、
僕は、お話そのものを楽しむだけではなく、
一人の特撮ファンとして、
番組の企画意図や内容を審査するような意識も持ちながらブラウン管の前に座っていたので、
『小さなスーパーマン ガンバロン』には、
“面白かった” という感想以上に、
“良質な子供向けドラマだった” という、客観的な目線での印象が強い。

映像から伝わってくる、
子供に人としての心の在り方を説こうとする大人たちの真摯な思いは、
思春期の僕の胸に、強く響いた。
幼い頃に『ウルトラマン』や『仮面ライダー』に夢中になった感覚とはまた違った感情が湧き起こり、
特撮ヒーロー番組がその頃更に好きになった次第である。

子供が変身ヒーローとして番組の主役を張る事の意義や魅力については、
前回、『円盤戦争バンキッド』を取り上げて述べたが、
確か、その『円盤戦争バンキッド』の終了と前後して、
『小さなスーパーマン ガンバロン』の放送は始まったと思う。
僕はその時、

 ああ、やっぱり、バンキッドが好評だったから、この新番組も子供が主役なんだぁ、

と、大いに納得したものである。

大好きで毎週観ていながらも、
年齢的に、友達と『円盤戦争バンキッド』について語り合うという事が一切無かった僕としては、
『円盤戦争バンキッド』に続いて
またしても子供が主役の特撮ヒーロー番組が誕生した事により、
『円盤戦争バンキッド』が面白いと思っていた自身のセンスや感覚が異常なものではない事が
初めて確認出来た気がして、嬉しかったのだ。
独りで密かに楽しんでいたものに、パーッとスポットライトが当てられた気がした。

“子供が主役のヒーローに変身する” というのは、
アニメ作品では簡単に成立する事であろうが、
特撮作品では、
実写ドラマであるがゆえにリアリティと説得力が不可欠なため、難しい。
それをバンキッドが見事にクリアした。
そしてその成功を受けて、ガンバロンの誕生となったわけである。

それに、
バンキッドは5人組という団体ヒーローであった(しかもうち一人は子供でなく大人が変身する)が、
ガンバロンは子供が一人で変身する単体ヒーロー。
正真正銘、
子供が変身ヒーローとして実写ドラマの主役に立ったのだ。

特撮ヒーロー番組の新しい時代の到来を、僕は確信した。
しかも、
その作品が、先述したように子供向けドラマとして実に良質なものだったので、
回を追う毎に嬉しさが倍増していったのである。

なので、バンキッドの時と違って、
今度は『小さなスーパーマン ガンバロン』を観ている事を、僕は公言した。
何の機会だったか忘れてしまったが、
ホームルームのような時間に、
教室で担任の先生やクラスメイトの前で
『小さなスーパーマン ガンバロン』の素晴らしさを熱く語ったのである。

たちまち、嘲笑を全身に浴びた。
中学生にもなって特撮ヒーロー番組を観ている事を、
担任の先生はもちろん、クラスメイトのみんなに馬鹿にされたのだ。

でも、
“子供番組”、“ヒーローもの” というだけで、
中身を見もせず知りもせず否定するその連中を、逆に僕も軽蔑した。

 お前たちみたいなヤツこそ、ガンバロンを観て、少しはまともな精神を養え!

みたいな事を僕が言ったので、喧嘩になりかけた(笑)。

それほど僕は、『小さなスーパーマン ガンバロン』を愛していた。
それだけ思いをよせるに値する、
素晴らしい番組だったのだ。

それもそのはず、
脚本を担当していた御一人である上原正三さんのインタビュー記事を
以前何かで読んだ事があるが、
上原さんは、
御自身のお子さんがちょうど特撮ヒーロー番組を熱心に見る年頃だったので、
我が子に良い番組を観せようと『小さなスーパーマン ガンバロン』は一生懸命書いた、
というような事をおっしゃっていた。

なるほど。

 今までに無い特撮ヒーロー作品を・・・、

という番組の方針のもと、
我が子が番組を見る事を前提に脚本家がお話を書いていた作品、
つまり、
子供の心を清く正しく育ませよう、と
作り手が特別に愛情を注ぎ入れた特撮ヒーロー番組、
それが『小さなスーパーマン ガンバロン』だったのである。


それにしても、
よその子供には、
戦争で捨て石にされた沖縄の怨念を根底に(って言うかむき出しに)、
裏切りとか差別とかディープなテーマで絶望の印象しか残さないものや
無残に人が殺されるような救いの無いものを散々観せといて、
自分の子供には明るく健全なものを観せたい、なんて、
上原さんも身勝手な人だ(笑)。

まぁ、でも、
僕も人の親だから、
上原さんのそういった心情はとても理解出来る。

若い頃の上原さんは、
おそらく自分のために脚本を書いていたと思う。
作家としての “自分” を確立するために。
だから感情を露わに自我をぶつけたような作品が多いのである。

だが、
年齢が熟し、
それを自分のためにではなく、
自分の子供のために書くという立場や状況になった時、思いは変わるのだ。

それは番組を観ていた側の僕らも同じである。
子供の頃に夢中で観ていた大好きな番組でも、
親となって自分の子供がその作品を観るとなると、
内容を冷静に見つめ直して、
幼い心への影響について考えてしまう。

なぜなら、
特撮ヒーロー番組には、
純粋無垢な子供に観せる事を躊躇してしまう要素がたくさんあるからである。

そもそも、
正義と悪との戦いは、言ってみれば “殺し合い” だし、
見るからにおぞましい姿形をした怪獣や怪人も出てくる。
そこへもって、
上原さんのような異質な感性の作家が、
“正義とは何か?”、“平和とは何か?”
と試行錯誤しながら物語を書けば、
当然、
社会の歪みや人間の心に潜む闇が表現される事にもなるだろう。

それに、
時代的に僕が子供の頃の番組は、
子供の正視に耐えないような描写や、いわゆる “不適切な表現” も少なくない。

果たして、そんなものを我が子に観せていいのか?
変なトラウマを植えつけたり、
おかしな感受性を持たせたりしないだろうか?
自分が子供の頃は喜んでそういった番組を観ていたくせに、
いざ親になると、
そんな心配をしてしまうのだ。

まだ息子たちが保育園に通っていた頃、園の懇談会に出席した事があるが、
その時、或るお父さんが、

 「ピストルとか刀とかは人殺しの道具なので、
    そういった類のオモチャは、うちでは絶対与えません。
        ヒーローもののテレビ番組も、あれは殺し合いだから、うちでは観せていません」

という発言をした。
ちょっとそれは行き過ぎではないかと思ったが、
そういう親御さんの気持ちは実によくわかるものだった。

もちろん、
ヒーローと悪者との戦いの物語は、
強く正しい心がいかに尊く美しいものか、という事を視聴者である子供に伝えるものであり、
殺し合いがただカッコよく美化されているものではない。
そこには、
人間が生きてくうえでの哀しみや痛みだってちゃんと詰まっている。
百も承知だ。
それが特撮ヒーロー番組であり、
だからこそ面白くて、
だからこそ僕らは夢中になったのだ。
驚いたり、ときめいたり、喜んだり、悲しんだり、憧れたり、憎んだり・・・、
その世界に引き込まれて、子供たちは色んな感情を持つ。
そして心の成長へと繋がっていく。
特撮ヒーロー番組は、そういう素晴らしいものなのだ。

それなのに、
自分で体感してわかっているはずなのに、
自分の子供には

 観せていいのかな・・・?

と考えてしまう。

おかしな話だが、
それが親心というものなのだろう。

『超人バロム・1』で、

 「ドルゲ魔人の姿形が恐すぎて、子供に悪影響を与える」

と放送局に視聴者の子供の親から苦情が殺到した、
という話を聞いた事があるが、
子供だった僕は『超人バロム・1』が大好きで毎週ワクワクしながら観てたし、
ドルゲ魔人を見て気分を害した事など、ただの一度もない。
みんな不気味で恐い(恐くないのもいたが)けど愛しい、とても魅力的な怪物たちだった。

だから、
そういう見当違いなクレームをつける大人たちを、若い頃の僕は馬鹿にしていた。
自分に将来子供が出来たら、

 大好きだった『超人バロム・1』を子供と一緒に観てドルゲ魔人を楽しもう、
 そういう父親になろう、

そう思って、
早朝に再放送していた『超人バロム・1』を録画したビデオテープを
ずっと消さずにとっておいた。

なのに、
実際に子供が出来て親になったら、
体中にフジツボがくっついたフランケルゲや
腐った片目から毒蛇が飛び出すミイラルゲが出てくる回などは、
息子たちには観せたくないなぁ、
と思ってしまった。

自分が子供の頃大好きだったくせに、
こんなグロテクスな怪物を子供に観せたら、精神に変な影響を与えやしないだろうか、
と考えてしまったのである。
若い頃馬鹿にしていた大人たちと同じ気持ちに、自分もなってしまったのだ。

先述した、
若い頃の上原さんが書いたものも同じ。
たとえば、『帰ってきたウルトラマン』。
息子たちと一緒にビデオを観ていて、僕は何度も気が引けた。
民族差別と日本の特性を
風刺どころかそのまま見せ付けられる第33話「怪獣使いと少年」や、
罪も無い坂田兄妹が、
車ではね飛ばされたり引きずりまわされたりして
惨殺されるシーンがある第37話「ウルトラマン夕陽に死す」など、

 こんなものを純真な子供に観せていいのかなぁ・・・、
 大丈夫かなぁ・・・、

という戸惑いの連続だった。
汚れない子供の心を、やはり親としては、傷つけたくないのである。


そして、
皮肉にも、『帰ってきたウルトラマン』には、
そんな親の心に宇宙人がつけ込んでくるエピソードもある。
市川森一さんの傑作、
第31話「悪魔と天使の間に・・・・」だ。

 伊吹隊長の幼い娘は、
 教会で知り合った聾唖学校の生徒である少年と仲良くなる。
 偏見で人を差別しない純粋な心の我が娘に、伊吹隊長は天使を投影する。
 だが、
 その少年の正体はウルトラマンを抹殺にやってきた宇宙人だったのである。

ラストで、伊吹隊長は、

 「人間の子は人間の子さ。天使を夢見させてはいかんよ」
 (脚本上は、「所詮は人間の腹から産まれた子だ、天使にゃなれんヨ」)

と言って、
娘に真実を話す決意をするのだが、
『帰ってきたウルトラマン』や『超人バロム・1』のビデオを自分の息子に観せる時の僕は、
まさに、あのシーンの伊吹隊長のような心境だった。
大袈裟でもなんでもなく、本当にそんな気持ちだったのだ。

結局、
自分が子供の頃に胸をときめかせたものを我が子にも観せてやりたい、
という特撮世代ゆえの強い思いから、
「怪獣使いと少年」も「ウルトラマン夕陽に死す」も、
フランケルゲもミイラルゲも、クチビルゲもヒャクメルゲも、
みんなみんな息子たちに思いきって観せたのだが、
幼い心に与える刺激や影響を考えて僕は迷い、そして悩んだものだ。

今では笑い話だけど、
それはそれは結構真剣に悩んだのだ。

だけど、
『小さなスーパーマン ガンバロン』なら、
そんな取り越し苦労をする事なく、我が子に観せてあげられたと思う。
戸惑う事も迷う事も悩む事もなく、自信を持って。

残念ながら『小さなスーパーマン ガンバロン』のビデオは持っていなかったので叶わなかったが、
あれほど我が子に見せたい特撮ヒーロー番組はなかった。


話がちょっと逸れたまま長くなってしまったが、
『小さなスーパーマン ガンバロン』がいかに健全で良質な子供番組であったか、という事が
僕は言いたいのである。
冒頭で述べた、
勇気とか正しい心とか、あるいは、友情とか思いやりとか、そういったものの大切さや美しさも、
決して上っ面だけの説教くさいものではなく、
お話の中で自然に視聴者に伝わるよう、脚本や演出が工夫されていたように思う。

家庭の事情で高校に進学出来なくなり人生に絶望を感じている友達のために、
わざと嘘をついて自分を憎ませ、
それによってその友達に生きる気力を取り戻させようとする少年の話や、
イジメられる度に自分に泣きついてくる妹分を、
「自分の事は自分でやれ」と突き放していた主人公の少年が、
自分もガンバロンとしての戦いの中でコンピュータを頼りにして甘えていた事に気づく話など、
今思い出しても、
心が洗われる思いがする美しいエピソードばかり。

明るくやさしい雰囲気でわかりやすくその世界を描き、
幼い子供が拒絶したり飽きたりしないよう物語に引きつけておいて、
感情移入したところでストンと心にメッセージを投げ落とすような、
そんな番組だった。
実に爽快で心地良い子供向けドラマだったのだ。

親が安心して子供に観せてあげられて、かつ、子供自身も楽しめる特撮ヒーロー番組、
そんな作品は、
放映当時としても斬新だったし、
今日に至るまでの特撮ヒーロー番組の歴史においても、まことに希有な存在だと思う。
とても魅力的で、素敵な番組である。



さて、肝心のソフビだが、
こちらも、魅力的で素敵な商品がいくつか世に送り出されている。
メーカーは、
番組スポンサーでもあったブルマァク。

もともとソフビ人形は、
子供の手にやさしく安全で、子供の夢見る心を育む、最も健全なオモチャである。
だから『小さなスーパーマン ガンバロン』の関連玩具としてソフビは最適。
実に相応しいものなのだ。
健全な番組の健全なオモチャ、それがガンバロンのソフビである。

    ガンバロン
    向かって左側がスタンダードサイズで全長約19センチ、
    右側はミドルサイズで全長約14センチ。
    マルサンの残り物から始まったブルマァクソフビの歴史だが、
    このガンバロン人形には、
    完全にマルサンを切り離した“ブルマァク独自の造形コンセプト”の完成を、見る事が出来る。
    実物の着ぐるみをリアルに表現しながら綺麗にまとめあげる、という
    ブルマァク造形の“到達点”と言える人形だ。

    また、右側のミドルサイズのガンバロン人形は、
    下の写真の人形たちとセット売りもされていた。

    向かって左端が、ガンバロンが操縦する巨大ロボット・ダイバロン
    真ん中は、ワルワル博士が変身した怪人・ドワルキン
    右端は、怪獣・オソロシゴリラ(足の裏には “オソロシコング” とある)。 


  オソロシゴリラ人形のヒップラインは、
  同じゴリラの怪獣という事で、
  マルサン名作ソフビのひとつであるジャイアントゴリラ人形を参考に造形されていると思われるが、
  前述した、綺麗にまとめあげる、という “ブルマァク独自の造形コンセプト” が
  大胆なうねりで生命感を出すマルサン流の表現に歯止めをかけているため、
  ジャイアントゴリラほどのダイナミックさは無い。
  だが、
  全体的な人形の出来ばえとして、
  決して見劣りする事はなく、
  体毛の表現の美しさが、整ったフォルムによくマッチしていて、
  ブルマァクならではの輝きがちゃんと放たれている。
  
  マルサンテイストを残しつつブルマァクの造形力を主張する人形の、
  もっともわかりやすい例ではないだろうか。
  
  ジャイアントゴリラ人形がもぎたての果実なら、
  オソロシゴリラ人形はその果実から作られた美味しいスイーツ、と言える。
  どちらの人形も、
  ソフビ怪獣人形という玩具が “造形物” として高く評価されるべき事を世に訴えかける、
  個性的で味のある造形だ。

 マルサンの模倣から始まって
 最終的に独自の手法を生み出したブルマァク造形の、
 その変遷が凝縮されたような興味深い人形である。
 これ1体でブルマァクの歴史が味わえる、というスグレモノ。

  確か第1話に、
  フォーリーブスがそのままフォーリーブス役でゲスト出演していたと思うが、
  オソロシゴリラがフォーリーブスのコンサート会場を襲撃した際、
  ガンバロンに変身する少年とその仲間たちが駆けつけ、フォーリーブスのメンバーに向かって、

    「危ないから早く逃げてください」

  みたいな事を言うのだが、
  子供にそんな事を言われたフォーリーブスのメンバー(確か、おりも政夫さんだったと思うけど)に

    「危ないのはキミたちの方だ!」

  と叱られるシーンがあった。

  ・・・無理もない話だ。
  ガンバロンに変身していたならともかく、
  変身前の、ただの小学生にそんな事を言われて大の大人が従うわけがない。
  フォーリーブスの言動はまったくもって正しいものである。  
  あれが少年じゃなく、
  本郷猛や一文字隼人だったら、あるいはウルトラ警備隊だったら、
  フォーリーブスも黙って従ってくれたであろう。

  子供が変身ヒーローとして主役を張る上での最大の壁が、なんといきなり第1話で露呈してしまった。
  まぁ、でも、そこがまた面白かったンだけど(笑)。



  こちらは、全長約9センチの、可愛らしいミニサイズのガンバロン人形が入ったセット。
  向かって左から、
  ガンバロンダイバロントブーンバクシーンヒライダー



    このトブーンとバクシーンとヒライダーが合体してダイバロンとなる。
    スピード感あふれる合体シーンのカット割りが
    とてもカッコよかったダイバロンだが、
    特撮番組における “合体変形する巨大ロボット” の登場は、
    なんと『ウルトラセブン』のキングジョー以来。
    つまり、ダイバロンは、
    特撮番組史上初の、主役側(正義側)の合体変形ロボットだったのである。

    にもかかわらず、
    その巨大ロボの特撮アクションをメインにするのではなく、
    あくまでも、
    ガンバロンに変身する少年や仲間の子供たちの心のドラマとして作品が描かれていたところに、
    僕は番組の誠意を感じる。
    そういうところが好きだった。



子供が変身する単体の特撮ヒーロー、
合体変形する正義の巨大ロボ、
親が安心して子供に観せられる明るく健全なドラマ、
そんな、
今までにない斬新な要素と切り口で、
特撮ヒーロー番組の新しい時代の幕開けか、と思われた『小さなスーパーマン ガンバロン』だが、
残念な事に、知らない間に番組が終わってしまっていた。
最終回を観た記憶がないのだ。

書籍やネットで調べてみたら、
スポンサーだったブルマァクが倒産したため、
どうやら強制的に打ち切りになったようである。
それも、
かなり無責任に打ち切ったみたいで、
最終回なのに、ラストでは「来週も観てね」と言っていたらしい。

・・・ヒドい話だ。
視聴者の中に忠犬ハチ公がいたなら、今でもずっとテレビの前に座って待ってるゾ。

冗談抜きで、
そのような終わり方は、いい番組だっただけに、とても残念である。

そんな『小さなスーパーマン ガンバロン』だが、
現在では、
インターネットの動画配信サービスなどでも視聴が可能なようなので、
機会があれば、また観てみたいと思う。
30年ぶりに、
あの爽やかな風と光を感じてみたい。
我が息子たちはもう中学生だから観ないだろうけど。

・・・あ、僕が観てたの、中学生の時だった(笑)。



参考文献 : 『夢回路』 市川森一・著 柿の葉会



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