真水稔生の『ソフビ大好き!』


第40回 「美化こそ真実」  2007.5

『ジャンボーグA』の変身シーンが好きだった。
変身シーン見たさに、毎週チャンネルを合わせていた。

『ジャンボーグA』は、
昭和48年に放送された円谷プロの作品で、
人類を殺戮と破壊によって滅ぼそうとするグロース星人の魔の手から
地球の平和を守るために、
セスナ機のパイロット・立花ナオキが
エメラルド星人から贈られた巨大ロボット・ジャンボーグAを操縦して戦う物語。

エメラルド星人の細工により、
立花ナオキの操縦するセスナ機がジャンボーグAに変身(変形?)するのだが、
立花ナオキが「ジャン、ファイト!」と叫んで
セスナ機が宙返りするとジャンボーグAに変わる、というその単純明快な変身シーンが、
当時小学3年生だった僕には、
斬新で、鮮やかで、カッコよくて、光り輝いて見えたのだ。
お気に入りの番組だった。

毎週登場する怪獣は、
アイデアの枯渇を感じさせる無理矢理なデザインの、
およそ生き物とは思えぬ造形のものが多くて、あまり魅力は感じなかったが、
ヒーロー・ジャンボーグAにはとても憧れていた。
巨大ロボットを操縦する、と言っても、
目の部分の奥にある操縦室で立花ナオキが動いたとおりにジャンボーグAも動く、
というものだったので、
まさにジャンボなサイボーグのごとく、人間のような動作をするところがおもしろかった。
さっきまでセスナ機だったものが、
宙返りひとつで、突如としてウルトラマンのような巨大ヒーローになり、
シャープでスピーディーなアクションを展開するのである。
僕が夢見るには充分過ぎる存在だった。

また、主人公の“立花ナオキ”という名前も良かった。
特撮ヒーロー番組の主人公の名前は、
一文字隼人とか北斗星司とか、
日常ではちゃっとお目にかかれないような特別カッコいいものが多く、
ヒーローになる人は最初から“選ばれた存在”である印象が強かったが、
“立花ナオキ”という、
この、自分のクラスメイトにでもいそうなありきたりな名前は、
夢の世界を現実に引き寄せる効果があったのだ。
もしも本当にエメラルド星人がいたら
ジャンボーグAを操縦するような機会が自分にも巡ってくるかもしれない、
そんな気持ちにさせてくれた。

大好きな変身シーンは、そういった幼い胸のときめきの象徴だった。
汚れ無き美しさで、僕の心に焼き付いていた。


ここ名古屋では、15年近く前に、
『今甦る!昭和ヒーロー列伝』というテレビ番組(第13回「玩具協力スタッフ奮闘記」参照)が放送され、
子供の頃に好きだった数々の特撮ヒーロー番組を再び見るチャンスに恵まれたが、
なんと『ジャンボーグA』は、
番組が行った“もう一度見たい昭和のヒーローリクエスト”で
堂々の1位に輝き、
番組開始早々に取り上げられる事が決まった。
幼い頃好きだったあの素敵な変身シーンと再会出来る事になったのである。
めちゃくちゃ嬉しかった。

だけど、実際に放送を見て、拍子抜けした。
20年ぶりに見たその変身シーンは、
僕の幼い頃の記憶とは大いに異なるものだったのだ。

僕が記憶していた映像は、
SFX技術を駆使した、現在のハリウッド映画のSF大作と同等のイメージだったので、
冷静に考えれば、
予算的にも時代的にも実現不可能なレベルのものであり、
“あれェ、こんなんだったっけ〜”という結果は予測出来たはずであるが、
子供の頃の夢を壊すかもしれない方向に自らすすんで向かう事は、本能で避けていたのだろう、
再会するまでその高水準な映像を信じていた。
実際に映像を見直してみて、
僕は、思い出を美化していた事に初めて気づいたのである。

だが、それは仕方がない事だと思う。
これまでにも幾度か述べたが、
僕の子供の頃は、
現在のように一般家庭にビデオやDVDが無い時代だったので、
テレビ番組を録画して好きな時に何度も見る、なんて事は不可能だった。
カッコいいヒーローと大好きな怪獣の戦いをもう一度見たいと願うなら、
カードやブロマイド、あるいは、児童向け雑誌や怪獣図鑑に載ってる写真や絵を見つめて、
心に残ったシーンを思い出しながら再放送をただひたすら待つか、
もしくは、
それこそソフビ怪獣人形を使ってその場面を再現して遊ぶ、
という事くらいしか出来なかった。

だが、その事が、
かえってヒーローや怪獣への濃厚な思いを生み出す事になってしまったのである。
もう一度見たいけど見る事が出来ない。思い焦がれる。
そんな感情の運動が繰り返されるうち、気持ちはどんどん熱くなり、
対象を心の中で美化させる、という現象を起こしてしまったのだ。

大好きな作品を自由に見る事が出来ない状況が、
その作品への愛情を異常なまでに深めたのである。

また、
主題歌の存在も大きかった。
素晴らしい音楽家の方々が生み出したその美しくカッコいいサウンドたちは、
単に幼い感性を刺激するだけではなく、
永久に色褪せないパワーを持った“芸術作品”だったので、
レコードを聴くたびに、
あるいは、
歌詞やメロディを思い出すたびに、
記憶の中のテレビ番組は、深く強く、その美化の根を張っていったのである。

そして、
いつしか心の時間が止まり、体だけが月日とともに成長していった。
『ウルトラマン』や『仮面ライダー』のようなメジャーなものは、
体が成長していく過程の中でも何度か目にする機会があったので、
心の中で美化したものも、その時の時間に合わせながら、上手に修正・確認する事が出来たが、
マイナーなものは、
再放送の機会が少なかった(へたすれば一度も無かった)ため、
幼い心が受けた印象が美化されたまま、放置されてしまったのだ。

『ジャンボーグA』の変身シーンはまさにそれで、
心の中で美化していた記憶と実際の映像とがあまりにも違っていて、
拍子抜けしてしまったのである。


でも、
拍子抜けしたのは変身シーンのみで、
番組の内容は、記憶していた以上に楽しいものであった。

敵の親玉が何度も代わったり、
途中から2号機であるジャンボーグ9が登場したり、
後半には『ミラーマン』のSGMまで出てきたり・・・、
と、言わばイベント満載の内容で、
常に視聴者を楽しませようとするスタッフの努力がひしひしと伝わってくる、
子供番組としてのエンターテイメントに徹した作品であった。

大胆で、単純明快で、ドラマティックで、
特撮ヒーロー番組を作る事に手慣れた感じが、映像によく出ていた。
本編も特撮も、さすが円谷プロ、といった仕上がりで、
幼い頃夢中になったのも大いに頷ける出来であった。

特に、
軽快な主題歌をバックに展開されるクライマックスの戦闘シーンは、
ダイナミックなカット割りで切れがあり、実にテンポが良く、胸を躍らせてくれた。
カラフルな作画合成によって描き出される必殺技も、
絶妙なタイミングで繰り出され、
心地良く視覚を刺激してくれるものだった。

子供の時は大好きでよく見てたけど、
一般的には、第2次怪獣ブームに勢いだけで作られた番組のひとつに過ぎないだろう、
と認識していたので、
時代の趨勢に乗る事は、やはりそれなりのグレードの高い作品でなければ不可能なんだと、
改めて“円谷プロ”というブランドに感心した。

変身シーンの輝きは、幼い時の記憶を下回ったが、
子供番組としての質の高さは、逆にそれを上回った。
子供の時見るのと大人になってから見るのでは感じ方が異なるので、
同じ映像でも、印象は変わってしまうものなのである。
当たり前の事だけど、
『ジャンボーグA』との再会は、その事を僕に強く再認識させてくれた。

ただ、主人公・立花ナオキの、
およそ尊敬や憧れには値しない、短気でやぶれかぶれでハチャメチャな人間性だけは、
幼い頃の印象とまったく変わらなかった(笑)。


 ジャンボーグAのソフビ人形各種。
 製造はタケミで、
 発売は“とびだす絵本”で有名な万創。
 サイズは向かって左から、
 約30センチ、約20センチ、約15センチ。
 真ン中の人形は、
 第1話で、エメラルド星人が
  「勇敢な若者である君に、
     素晴らしい武器を与えよう。
        その名は、ジャンボーグA」
 と言って指差す彼方に
 スクッと立ち上がった時のジャンボーグAに
 雰囲気がそっくり。
 この人形を見る度、また第1話が見たくなる。


 アンチゴーネとルバンガーキング。
 敵キャラでソフビ人形になっているのは、
 おそらくこの2種のみ。
 全長約13センチのミニソフトではあるが、
 商品化されていた事は実に嬉しい。
 冒頭で述べたように、
 あまり魅力的な敵キャラはいなかったが、     
 ソフビ人形化されると
 実物にはない魅力が生まれる事も多いので、
 もう少しラインナップを
 増やしてほしかった気もする。

 スタッフの思惑としては、
 主役のジャンボーグAよりも
 断然強いジャンボーグ9の登場で
 番組を更に盛り上げよう、
 というものだったと思うが、
 僕は、Aの、
 セスナ機が変身するという斬新さが好きだったので、
 空を飛べない9には、
 正直、それほど魅力を感じなかった。
 変身前の車といい、
 車の運転のような操縦法といい、
 あまりカッコいいとは思えなかった。
 一般的にも9は人気がなかったのか、
 敵キャラと同じく
 このミニソフトのみの人形化だったようなので、
 今となってはちょっと残念。
 もっと応援すればよかったかな。


『ジャンボーグA』の最終回は、

 「いつか必ず地球を手に入れてみせる」

というグロース星人の闇からの叫びで幕を閉じ、
続編が作られる可能性を残しているが、
主題歌3番の、

 “本当の平和が来る日まで
        いつもどこかで見てるのさ ジャンボーグA”

という歌詞が、

 「いつ再びグロース星人が攻めてきても大丈夫だよ」

ってエメラルド星人に言われている気がして、
僕は好き。
放送終了から30年以上経つが、ただの一度も続編が作られないのは、
グロース星人が再び地球に来ないように
ジャンボーグAがいつもどこかで見ていてくれるからなのだ。
僕はそう信じてます、ハイ。




また、
『今甦る!昭和ヒーロー列伝』で取り上げられた作品では、
その“もう一度見たい昭和のヒーローリクエスト”で
『ジャンボーグA』と1位を争った『サンダーマスク』も思い出深い。

この『サンダーマスク』も、
『ジャンボーグA』と同じ頃に放送されていた特撮ヒーロー番組で、
子供の時以来の、久しぶりの視聴となったわけだが、
もう、『ジャンボーグA』の比じゃないほど、拍子抜けさせてくれた。

『ジャンボーグA』は変身シーンのみだったけど、
『サンダーマスク』は、
設定やストーリー、そのすべてが子供の頃のイメージと違っていて、
作品そのものにガッカリしてしまったのだ。
子供の頃は気にならなかったが、
いい加減というか呑気というか、なんともマヌケな作品だったのである。


全宇宙の征服を企む魔王デカンダが
地球を侵略しようとしている事に気づいたサンダーマスクは、
地球をデカンダから守るために、
先回りして、デカンダより早く地球へやって来てくれた。
さすがヒーロー。

だが・・・、
だが、早すぎた。
デカンダが攻めてくるのは1万年後だったのである。 (えーっ!? \◎o◎/)

 「ロケットのスピードがちょっと速すぎて・・・」

と言い訳していたが、
全地球人の命が懸かっているのに、
そんな大雑把な計算で飛んでこられては困るではないか。
本気で地球を救う気があるのか。
もう、この時点ですでにヒーローとは言えないと思う。

でも、これはあくまで序の口であった。
1万年も時間を間違えちゃったそのあわてん坊なサンダーマスクは
それでどうしたかというと、
なんと、
眠りについたのである。
そこで寝ちゃったのだ。 (えーっ!? \◎o◎/ ・・・2回目)

しかもそれは、
誰かが起こしてくれるまで起きない、という深い深い眠りなのだ。 (えーっ!? \◎o◎/  ・・・3回目)

1万年後の地球に、
サンダーマスクの存在に気づいて
眠りから覚めさせてくれる科学者がいたからいいようなものの、
その科学者がいなかったら、
あるいは、
その科学者がサンダーマスクの存在に気づかなかったら、
デカンダが来ても、いや、デカンダに地球が征服された後でも、
サンダーマスクはぐーすか眠り続けていたわけで、
その、なんとも行き当たりばったりで無責任な行動に、僕は呆れてしまった。

だいたいその科学者だって、
サンダーマスクが起こしてもなかなか目覚めてくれないので、
モタモタしているあいだに魔王デカンダに殺されてしまうのである。 (えーっ!? \◎o◎/ ・・・4回目)
・・・なんて気の毒な事だろう。
遺族の気持ちを思うと、胸が痛くなる。
1万年前から寝ていた事はこの際大目に見るとしても(なんと寛大な処置)、
起こしたらすぐに起きてくれなきゃ、これまた困るではないか。
地球に何しに来てるのだ、まったく。

一人の人間の命よりも自分の睡眠欲を優先させるような男が、
どうやって全地球人の命を守るというのか。
頼むから真面目にやってくれ。

だが、世の中よく出来たもので、
魔王デカンダが、このサンダーマスクに輪をかけてマヌケなヤツだったので、
地球は結局侵略されずに済むのだった。
・・・壮絶なまでに気楽な世界である(笑)。


『サンダーマスク』は、
敵役の怪獣を、
生物の性質と特殊金属の性質を合わせ持った“魔獣”とし、
従来の怪獣とは違った新しい敵キャラを生み出して
他の作品との差別化を図ろうとするスタッフの意気込みや異質なセンスが感じられる、
当時の幼い僕の感覚では、
しっかり作られた印象の、真剣味を感じる作品だった。

タイヤーマ(その名の通りタイヤの魔獣)とか、
名前は忘れちゃったけど頭部に大きなドリルが3個ついたヤツとか、
斬新なデザインの魔獣もいて小洒落た感じだったし、
サンダーマスク自体も雄雄しくてカッコよかった。
大好きだった。
ウルトラシリーズ以外では最も優れている特別な特撮ヒーロー番組として記憶していたのだが、
それは、思い込みによる勘違いだった。
これもまた、美化していたのだ。
変身シーンだけではなく、作品全体が僕の記憶をはるかに下回るものだったのである。


それでは、第1話より、
『サンダーマスク』のマヌケな世界観を象徴する会話をひとつ紹介しよう。

〜命光一(サンダーマスクに変身する人)と子供の会話〜

   子供「どうして1万年も前に魔王の侵略がわかったの?」

     命 「魔王デカンダは宇宙の侵略者だ。
      その魔王が、20世紀後半に地球侵略を開始する事がわかったんだ」

   子供「ふ〜ん」

・・・って、おいっ!
だから、なんでわかったンだっつの!
と、
思わずツッコミを入れたくなってしまうが、
質問した子供がこの説明で納得してしまうのだから、
つくづく凄い世界である(笑)。

で、最終回がまた凄い。
にせサンダーマスクとサンダーマスクが戦っているところに
地球人がミサイルを撃ち込んだのだが、
どっちが本物のサンダーマスクで、どっちがにせサンダーマスクか区別がつかない地球人は、
なんと、
イチかバチかで発射してしまったのである。 (えーっ!? \◎o◎/  ・・・5回目)

そして、
そのミサイルは本物のサンダーマスクに命中し、
哀れサンダーマスクは
それが原因でなんと死んでしまうのである。 (えーっ!? \◎o◎/  ・・・6回目、ってもう数えたくない)

こんなムチャクチャなヒーロー番組があっていいものか。
子供の頃は、
自分の命と引き換えに地球を守ってくれたサンダーマスクの勇敢さに
素直に感動していたが、
大人になった今では、そのあまりに多い突っ込みどころに何度も失笑してしまい、
こんな番組に憧れていたのか、と我ながら呆れてしまった。

 サンダーマスクのソフビ人形各種。
 メーカーはバンダイ(ポピー)。
 向かって左からキングサイズ(約38センチ)、
 スタンダードサイズ(約27センチ)、
 ミニサイズ(約15センチ)。
 サンダーマスクは、
 二段変身(巨大化)が“売り”のヒーローだが、
 人形のサイズは三種類あるので、
 二段変身ならぬ三段変身が楽しめる(笑)。
 似たような型の単なるサイズ違いにはせず、
 各サイズそれぞれ全く違った捉え方で、
 サンダーマスクの勇ましい表情や出で立ちを
 表現しているところが興味深い。

そういえば、
変身する時や必殺技を繰り出す時のサンダーマスクの声、って、
どこか悲壮感が漂う叫び声で、
聞こえてくると思わず顔をしかめてしまうような不快感があった。
命光一を演じていらっしゃた方が声を当てていたと思うが、
本郷猛や一文字隼人のようなカッコいいものではなく、
なんだか、泣き叫んでいるような、耳障りでやたらとうるさい印象だった。

 「サンダーッ!」
 「でーいっ!」

 「サンダーッ!にだーん、へーんしーん!!」

 「だぁーっ!」
 「サンダーッ!シューッ!!」

・・・まさに、闇を引き裂く稲妻のような、やかましい叫び声だった。
あ、だからサンダーマスクかぁ、・・・って今更(笑)。

 海賊版のサンダーマスク人形。
 全長約30センチなので、
 バンダイのスタンダードサイズより
 少し背が高い。
 この2体は、
 単なる色違いと思いきや、
 モールドが微妙に違っていて、おもしろい。


『ジャンボーグA』の変身シーンも『サンダーマスク』の世界観も、
確かに、僕が記憶していたものとは違っていた。
心の中で美化していた。

だが、しかし、
だが、しかしです。
(ここからが今回言いたい事)
『ジャンボーグA』も『サンダーマスク』も子供番組である。
番組の使命は、
視聴者の子供を喜ばす事。夢を与える事。
両作品とも、その使命は見事に果たしていた。
当時は、
番組を見ていた子供が、大人になってからそれを真剣に見直しす事など、
おそらく計算されていないだろう。
将来、ビデオやDVDのようなものが一般家庭に普及する事は予測出来ても、
作り手は、
その子供番組が、大人の趣味やサブカルチャーといった観点で見直され、
映像作品として研究・評価される事は考えていなかったと思う。
また、現在のように、
怪獣映画を見て批評する大人や、
子供と一緒にヒーロー番組をすすんで見る親も、
まずいなかったから、
大人のファンやマニアの存在など意識する事なく、
子供が喜ぶと思う物をただひたすら作っていただけである。
だから、
その番組を見た子供たちが喜び、夢を見た時点で、
それは優れた作品なのである。
記憶の中で美化してしまうほど当時の子供たちが愛した作品を、
誰が何をもって非難出来よう。
美化した事こそ、子供番組の真実なのだ。

『ウルトラセブン』のように、
今見てもおもしろく、大人の鑑賞にも堪える作品はもちろん素晴らしいのだが、
だからと言って『ジャンボーグA』や『サンダーマスク』が駄作だとは思わない。
『ジャンボーグA』も『サンダーマスク』も、
僕、いや、当時番組を見ていた僕と同世代の人たちみんなの、心の聖域で輝きつづける作品である。

大人になってから子供の頃を懐かしむ事は楽しい事だが、
子供の頃のものは、子供の頃の感覚で接しなければ、本当の良さはわからない。
今見てどうか、ではなく、
子供の時見てどうだったか、が、昔の子供番組の真価を問われるところなのだ。


ソフビ怪獣人形だって、
何も、大人になってから気づいた、造形やカラーリングの美しさだけが
素敵なのではない。
当時の子供たちを夢中にさせたからこそ、優れたオモチャ、と評価出来るのである。

今どんなにその魅力の奥深さに惹かれようが、今どんなに高値がつこうが、
あくまでも子供の頃のオモチャなのだから、
それで夢中になって遊んだ思い出や
欲しくて欲しくてたまらなかったけど買ってもらえなかった、
なんていうようなリアルタイムの記憶がなければ、
手にした人が本当の価値を見出すのは困難であろう。

20年近くコレクターをやってきて実感している事だが、
ソフビ世代ではないソフビコレクターには、
たくさん持ってるンだけど愛情が感じられない、って人が結構多い。

  「ナメゴンなんて、買った時は全然いいと思わなかったけど、
           30万、40万・・・と値段がついてきたら良く思えたよ」

などと、恥ずかし気もなくおっしゃってる有名コレクターだっているくらいである。
信じられない。
って言うか、哀しい。
そんな人の許へ行ってしまったナメゴン人形が気の毒でならない。

僕よりも年齢が少し上の世代、つまり、子供の頃ソフビで遊んでいない世代の人たちが、
比較的入手しやすい時期に多くのソフビを手に入れてしまったところに
ソフビの悲劇がある。

たとえば、
本当はブリキのオモチャが欲しいのに、
探しに行っても見つからないし、専門店で買うには高価すぎるので、
仕方が無いからなんとなく買ってたソフビが、気づけば結構な数になってて・・・、ってケース。
たくさん集まってくれば色鮮やかで雰囲気もいいし、
コレクションとしてなんとなく“絵”になってくる。
そして、
それらに高額なプレミア価格がついてる事を知ったりすると、
俄かに

  「ソフビ、ってなんかイイよね」

なんて言い出す。
でも、
世代が違うのだから当然のごとく、
ゴジラとガメラくらいしか名前のわかる怪獣はいないし、
ヒーローも、ウルトラマンとウルトラセブンくらいしか知らないから
スペクトルマンとミラーマンの区別なんかつくはずもなく、
仮面ライダーの怪人もタイガーマスクのわるものレスラーもみんな一緒くた。
ブームになってきたから、良さがわかるフリを無理矢理してみたけれど、

  「独特だね」

とか

  「そそるものがある」

とか、
そんな、わかったような、わかんないような、極めて抽象的で中身の無い評価しか出来ず、
最後は飽きてしまって手放す。
ほとんどがこのパターンである。

たいして思い入れも無いのに所有すれば、必然的にそうなるのだ。
夢見る事や空想する事よりも“生活”を優先しなければならない大人が、
愛情や思い出も持たずに怪獣の人形なんか触ったって、“ひやかし”でしかない。
本当の良さがわかってないから、いつか飽きるのだ。
本当に好きじゃないから、結局手放すのだ。
だったら最初から買うなよ、語るなよ、
って言いたくなってしまう。
だって、
その分、本気で欲しい人のところにモノが行き難くなるのだし、
愛してもらえない人形だって可哀想である。

・・・あ、断っておくけど、
“ひがみ根性”で言ってるわけではないよ(多少ひがんでるのかな(笑))。

“懐かしい”っていう感情に左右されない冷静な目で見る事も
ソフビ怪獣人形の魅力を追究するには必要なのかもしれないけれど、
その、世代じゃない人の見解が、
僕らの“懐かしい”って感情より優先されるようでは、本末転倒である。
オモチャは子供のものであり、
大人が評価するものではないのだ。
子供の時の目で見た際のオモチャを知らなければ、真実には迫れない。
どんなに言い訳や理屈を小手先で上手に言っても、
思い出を美化してしまうほどの愛情には勝てないのだ。


テレビ番組にしろ、オモチャにしろ、
子供時代のものを、大人になってからの感覚だけで捉えるのはナンセンスである。
そこに詰まってる夢を受け取る事が出来るのは、
子供の感受性だけなのだから。
ジャンボーグAやサンダーマスクの人形たちも、ちゃんとそれを物語っている。


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