真水稔生の『ソフビ大好き!』


第86回 「さじ加減の妙 〜サザンオールスターズを聴きながら〜」  2011.3

時代が平成になって20年余り、
ゴジラシリーズもガメラシリーズもウルトラシリーズも、
様々な新作が作られてきた。

僕はとても嬉しかった。
特に、昭和の終わり頃は、それらは忘れ去られていた感さえあったので、
新しい時代に不死鳥の如く復活を遂げた事は、
まるで怪獣やヒーローの底力を見るようで、
ファンとして誇らしくも思えたし、
自分が子供の頃に愛した映画やテレビ番組のシリーズ新作を
自分の子供と観る事が出来る幸せは、
感慨無量であった。

しかも、
そこに登場する新怪獣を見るたび、
昔の怪獣の良さを再認識し、
自分が昭和の子供であった事をとてもありがたく思えたものである。
ただ、それは、
逆の言い方をすれば、
平成の新怪獣には不満だった、という事になる(笑)。

平成の世に作られた様々な新怪獣たち。
その、
アメリカ映画にでも出てきそうなシャープな姿形は、
カッコいいし、迫力もあるのだけれど、
どこまでいっても冷たくおぞましいだけでしかなく、
何か、
違うと言うか、物足りないと言うか、
今ひとつ好きになれなかった。

自分自身が大人になってしまったから
子供の頃のような素直な受け入れ態勢で見られない、っていうのもあるかもしれないけど、
単にアメリカのモンスターにカブれただけのような姿形が、
なんだか、
上手に作られた模造品で誤魔化されているような気がして、
悔しく淋しいのだ。

それは、
単にデザイン・造形だけの話ではなく、
怪獣の動き方や映像の見せ方なども含めたところでの話なのだけど、
その怪獣から滲み出る雰囲気・空気感に、
日本の“ワビ・サビ”の感覚が感じられない、というのが原因なのである。

気色悪い姿形で恐怖をあおるだけのモンスターは、
アメリカ映画には似合うだろうが、
僕ら昭和の怪獣世代の感性には合わない。

怪獣とは、そういうものではない(あえて断言)。

ただのトカゲの化け物のようなハリウッドゴジラが
日本の多くのゴジラファンからそっぽを向かれた事からも、それは歴然としている。
後に、
平成ゴジラシリーズにおいて、
そのハリウッドゴジラが
ゴジラに似た生き物である事、つまり、あれはゴジラではない、という事が明言されたり、
ゴジラとは別怪獣としてわざわざ登場させられたあげく、
その存在そのものを否定するかのように、ゴジラによって一瞬で葬り去られたりしたシーンに、
妙にスッキリした感覚を覚える人も多かったのではないだろうか。


僕らは、モンスターではなく、怪獣が観たいのだ。

五・七・五の短い文章から、
その行間に込められた状況や心情を読み取る“俳句” という文化が物語るように、
目に見えているものから、
目に見えていない部分を感じ取って愛するのが、日本人の感受性の特色である。
なので、
怪獣ならば、
見かけどおりにただ強暴で恐いだけではなく、
どこか哀しくて滑稽で、
感情移入出来るような温もりが感じ取れるようなものでないと、
僕ら怪獣ファンはもちろん、
今の子供たちの胸にすら、深く響かないと思う。
異様で醜い容姿の裏側に
ロマンチシズムが宿っていてこそ “怪獣” なのだから。

昔の怪獣たちには、そういう情緒があったのだ。
適当に選んでみると、
たとえば、この3匹。

向かって左から、
バラゴン(全長約16センチ)、
バイラス(全長約20センチ)、
イカルス星人(全長約18センチ)。
それぞれ、ゴジラシリーズ、ガメラシリーズ、ウルトラシリーズに登場した、
昭和の人気怪獣である。

現在のバンダイの、リアルな造形のソフビなので、
これが、ほぼ実物の姿と言えるが、
3匹とも、
奇抜なのに決して生理的嫌悪感を抱かせないし、
何なら親しみや愛しささえ感じてしまうような魅力があり、
いかに味わい深い、粋なキャラクターであるかが、再確認出来る。
人間を襲う恐怖の存在でありながら、
子供の時にそれを見た僕らからずっと愛され続けているのも、当然であろう。
カッコいいのに名前すら憶えてもらえない昨今の新怪獣とは、対照的である。

これが、怪獣なのだ。
時代が違う、と言ってしまえばそれまでだが、
怪獣に憧れ、怪獣に夢見て育ち、今でも怪獣が大好きな僕としては、
あきらめきれない。
もっと違う怪獣が見たい。
もっと違う怪獣に驚きたい。
もっと違う怪獣に感情移入したい。
日本の怪獣映画にマッチする、深みのある味わいの、
強くて恐いけど哀しくて滑稽な、そんな新怪獣と出会いたいのである。

アメリカのモンスターからイメージを膨らまして
カッコいいデザイン・造形の迫力ある怪獣が生み出される事は大いに結構だが、
ただ真似るのではなく、
巧い事その要素を取り入れて作られた、
日本独特の “味” がするものでないと、
日本の怪獣映画や特撮ヒーロー番組に新怪獣として登場する意味が無いと思う。
出し殻のお茶のように登場させられる安っぽいリメイク怪獣よりも
新怪獣の方がインパクトが弱いようでは、どうしようもない。

 「単なるお前の好みによる偏見だ!」 と

反論する人もいるかもしれないけど、
僕みたいな事を思ってる人って、結構いると思うンだけどなぁ・・・。


ところで、
こうやって、
モンスターでは決してない “日本の怪獣” というものの良さについて考えると、
僕は、いつもサザンオールスターズを思い出してしまう。
怪獣とサザン、
まったく無関係に思われるであろうが、これは非常によく似ている。
では、
その結びつきについて、これから述べてみよう。


僕と同世代の方なら御存知かとは思うが、
デビュー当時のサザンは、コミックバンドのように認知され、
桑田佳祐さんの作る曲は、

 歌詞が何を言っているのか解らない、

と非難されていた。
現在では、
桑田さんの才能が解らないなんていう頓痴気は、まずいないと思うが、
当時の大人たちの中には、結構いたのだ。
たとえば僕の父親も、その一人。
父親は、
桑田さんの作る曲の素晴らしさを、全く理解していなかった。
僕がサザンのレコードを聴いていると、

 「こんな、何言っとるかわからん早口の歌のどこがいいンだ!?」

と、
いちいち馬鹿にしてきた。
話にならないので
無視してそのままレコードを聴き続けていると、

 「やかましいっ! ボリューム下げろ!」

と、怒りだす。
 
 お前の方がやかましいわ、と
 
僕はいつも心の中でムカついていた。

すると、
或る年の大晦日、
一家団らんでNHKの『紅白歌合戦』を見ていたら、
サザンが出てきた。
『東京シャッフル』という曲だった。
例によって、

 「なんでこんな連中が紅白に出れるンだぁ?」

などと、鬱陶しいケチをつけはじめた父親は、
サビの、

 ♪ PiPiPi PiPiPi・・・

というスキャットの部分に差しかかった際に、
わざとオーバーに嘲笑しながら、

 「ピピピって、どういう意味だ? ターケか!?」

とホザいた。
僕は、もう我慢が出来なくなり、思わず言い返した。

 「鬱陶しいなぁ、いちいち。
  自分が理解出来ないからって、チンピラみたいな因縁つけてくるなよ。
  じゃあ、聞くけど、
  お父さんが好きな青江三奈の『伊勢佐木町ブルース」の、
  ♪ ドゥドゥビ ドゥビドゥバ ドゥビドゥバァ〜
  って、どういう意味だよ!?」

と。
咄嗟に思いついたにしては、我ながら見事な反撃だった(笑)。
父親は、何も言い返せず黙っていた。

 ざまぁみろ!
 人が好きなものに偉そうにケチつけるなら、せめて理論武装してこい、っつの!
 何が「なんで紅白に出れるンだぁ?」だ、アホか。
 紅白に出られる人たちの才能を理解出来ないお前の貧相な感性こそ、
 なんで? だ。
 お前こそ、
 ターケか!? だ。 恥を知れ!
 
普段の溜飲がちょっと下がって、そのまま良い新年を迎えられた僕だった(笑)。


・・・なんか、いきなり話が逸れたな。スミマセン。
話を元に戻すと、
その、“歌詞が何を言っているのか解らない” というのが、
実は、
桑田さんの作る曲の、“良さ” だったのである。

音符ひとつに付く言葉が、英語にはたくさんあるけど、
日本語の場合は、“を” とか “が” とかの助詞しかない。
そんな、
日本語の歌における音楽としての絶対的マイナス要素を、
感覚で取っ払ってしまった、
それが桑田さんの凄いところなのだ。

これは、革命的な事だった。
文脈とか文法とかを無視してでも語感や音節にこだわる、
などという歌詞の概念は、
それまでの日本の歌には無かったのだから。

“サウンド指向” なんて言うと、
なんか安易な表現になってしまうかもしれないけれど、
詞と曲が分離しない歌を作り、歌う、
そういう音楽を当たり前のように追求しているところに、僕はとても惹かれた。

しかも、
そうやって語感や音節にこだわり、
英語の、音符に無理なく適合する特長に忠実でありながらも、
決して英語の歌を歌おうとしているわけではない、
というところが深い。
桑田さんは、
最終的には自分の国の言葉でしか思いは伝えられない、という “限界” を知っていたし、
自分の国の言葉を愛していた。
それが、
年を重ねれば重ねるほど桑田さんの中で強い思いになっていった事が、
今日までに発表された楽曲たちから感じ取れる。

英語の歌、いわゆるポップスに、
憧れてはいるけれど、決してカブれてはいない。
日本語を愛している。
そこが素敵なのだ。

日本語が従来持っている響きの面白さを活かし、
それを英語の歌詞と愉快に調和させ、
気持ちのいい歌・楽しい曲、として仕上げながら、
ところどころに
グッとくる日本語のフレーズを入れ込んでくる技は、見事としか言いようがない。

歌を聴いて人が感動するのは、
決して、歌詞全体の意味が理解出来た時だけとは限らない。
歌詞の一部分にだけ胸が奮える事だってよくあるし、
なぜだか解らないけど涙が溢れたりする事だってある。
歌とは、
そういうものだ。
人間とは、
そういうものなのだ。

断片的なフレーズから聴く側の想いやイメージが広がる事も
多々あるわけだから、
文法的にちょっとおかしい箇所があったり、
意味の無い言葉が混じっていたりしても、
聴き心地の良い響きであれば、
歌として、音楽として、
それは自然な事であり、違和感の欠片も無い事なのである。
歌詞の意味だけを問題にするなら、それが歌や音楽である必要はない。

逆説的な言い方かもしれないけど、
桑田さんほど歌詞を大切に考えていた “作詞家” はいないのである。

そんな、
洋楽の音楽性を日本のロック・日本の歌謡曲に絶妙な感覚で適用させた桑田さんの曲、
すなわちサザンオールスターズのナンバーは、
アメリカのモンスターみたいにグロテスクでありながら、
決して冷たくおぞましいだけではなく、
どこか哀しく滑稽でなんだか温かみのある日本の怪獣の情緒と、イメージが重なる。

洋と和を混ぜ合わせる“さじ加減の妙”、
これこそが、
怪獣とサザンの共通点なのである。

怪獣とサザンには、
西洋へ憧れながらも
日本の“ワビ・サビ”の感覚を愛して懐かしむ心が、“肝” としてある。

僕はこれを平成の新怪獣にも求めたいのだ。
特撮からCGへと
映像の手法は変わっても、
日本の怪獣ならば、
ゴジラやガメラやウルトラマンと戦う怪獣ならば、
それをいちばん大切にしてほしいのである。


そこで、
もうお気づきの方もおられるかもしれないが、
二つのものを混ぜ合わせる際の “さじ加減の妙” と言えば、
やはり、マルサンのソフビである。
これまで幾度も述べてきたように、
マルサンのソフビ怪獣人形は、
怪獣としての迫力とオモチャとしての愛嬌が、絶妙な加減で混ぜ合わされた傑作玩具である。

リアルな造形のフィギュアは、
冷たくおぞましいアメリカのモンスターにはピッタリだけど、
ゴジラにしろガメラにしろウルトラにしろ、
昭和の人気怪獣では、
今ひとつ、ハマっていない気がする。
突き抜けるほどの魅力のパワーが無いのだ。
カッコいいから好きだけど、
僕はどうしても、
現在のバンダイのソフビには、そういった “限界” を感じてしまうのである。

マルサンは、いや、当時の玩具業界は、
その “限界” をすでに感覚として理解していたような気がする。
桑田さんが、日本人が英語の歌を英語で歌う事の “限界” を知っていたように。
だから、むしろ、
そんな無駄な事(リアルな造形)に挑むより、
得意な方面で夢を膨らます事(デフォルメ)を選んだのではないだろうか。
そして、それは大正解であった。

くどいようだが、
日本の怪獣には、
単純に見た目だけの迫力にはない、
滲み出るような哀しさや可笑しさがある。
だから、
そういう心で感じる部分も、
人形ならば、
オモチャならば、
ちゃんと形として表現してあった方が、愛される力は強いと思う。
そういった意味で、
やっぱりマルサンというメーカーのセンスは凄いし、
今のソフビよりも昔のソフビの方が、
オモチャがオモチャらしくいられた時代であった分、優良なものであったようにも思う。

僕自身がマルサンのソフビで遊んだ世代の人間なので、
公平なジャッジとして受け取ってもらえないのが悔しいのだけど、
外形をどこまで精巧に怪獣人形を作っても、
マルサンの表現は超えられない気がする。
実物の再現にこだわったリアルな造形のソフビは、
瞬間的には、
シビれるし、見惚れちゃうし、感動してしまうのだけど、
時の経過とともに、虚無感のような淋しさが湧き起こってくるのである。
コレクターになって20年余り、
新旧様々なソフビに囲まれて暮らしてきたので、僕にはそれが実感としてある。

先ほど、3匹の怪獣を現在のバンダイの人形を使って紹介したが、
上の写真は、同じ怪獣のマルサン版。
向かって左から、
バラゴン(全長約23センチ)、
バイラス(全長約17センチ)、
イカルス星人(全長約24センチ)。
そして、
両者を並べてみたのが、下の写真。

先ほどは、平成の新怪獣との比較だったので、
現在のバンダイの、リアルな造形のソフビを用いたのだが、
世代の違う人に、
当時の子供たち、つまり僕らが、
なぜ、こんなグロテスクなキャラクターを支持したか、
という事を伝えるには、
やはり、断然マルサンのソフビの方が重宝する。

デフォルメされた事によって、
哀しみや可笑しさといった怪獣の内面が “形” として現れているからである。
しかも、
時にそれは、過剰なまでの表現であったりするので、とてもわかりやすい。
先ほど例に出した “俳句” で言うなら、
子供でも理解出来るように、行間の部分も文字になってやさしく解説されているようなものだ。

子供でも理解出来るように・・・、
つまり、
オモチャとして優良、という事になるのである。

これが、怪獣玩具なのだ。
今回、
日本の怪獣の魅力が
洋(冷たさ・恐さ・カッコよさ)と
和(温かさ・哀しさ・可笑しさ)を
混ぜ合わせた際の “さじ加減の妙” である事を
桑田さんの音楽的才能になぞって説いてみたのだが、
マルサンのソフビが、
すでに何十年も前にそれを成し遂げていた、というわけである。
改めて、マルサンソフビは凄い。



サザン4枚目のアルバム『ステレオ太陽族』
今からもう30年以上も昔に発表されたアルバムだが、
僕はサザンのアルバムの中でこれがいちばん好き。
初めて聴いた時、
収録された1曲1曲から、
作詞家としての桑田佳祐はもちろんの事、
メロディーメーカーとしての桑田佳祐、
ヴォーカリストとしての桑田佳祐を、
サザンオールスターズというグループによって、
なんか強烈なビート感でぶつけられた気がした。
思えば、
日本のグループで、僕が初めて “バンド” を意識出来た人たちが
このアルバムの、サザンオールスターズだったかもしれない。
     たぶん、
     僕に限らず、世の中の人たちが、
 
       桑田佳祐って、もしかして凄い音楽家なンじゃないのか?
       サザンオールスターズって、もしかして特別なバンドなンじゃないのか?

     って、気づきはじめた1枚だったと思う。

余談だが、
高校の修学旅行で九州へ行った際、
現地のバスガイドさんに僕は一目惚れした。
帰ってからもラブレターを出し続け、
お小遣いを貯めて、1年後に再び九州へひとり旅に出かけた。
『付き合って下さい」と言うためである。
そして、
ものの見事に撃沈し、
帰りの新幹線の中で、この『ステレオ太陽族』をウォークマンで聴いていたのだが、
A面3曲目の『素顔で踊らせて』という曲に、
思わず涙が溢れ出た。
サビの部分の
デリケートな歌詞と美しいメロディーが、
桑田さんと原由子さんの切ない歌声によって、
失恋したての僕の胸に、なんともセンチメンタルに沁みたのだ。
窓の外の景色を見ながら、
名古屋に着くまで、サングラスの下でずっと泣き続けていた。
・・・あぁ、青春だったなぁ(笑)。

今回、この原稿を書くに当たって、
そんな大好きで思い出深い名盤『ステレオ太陽族』を久しぶりに聴いてみたが、
どれだけ繰り返し聴いていても、
父親は何も言わない。
さすがに
あの世からケチをつけにくるのは面倒なのだろう。
おかげで、
好きな音楽が気分を害される事なく楽しめて快適だけど、
ちょっと淋しいかな。

もし父親が今でも生きてたら、
無視したり、言い返したりしないで、
穏やかに冷静に、
桑田さんの何が素晴らしいのか、
サザンオールスターズのどこが好きなのか、
って事を、
こうやってソフビ怪獣片手に解説してあげるのになぁ・・・。

まぁ、でも、
音楽なんて、
結局好みの問題だし、
それを聴いて感動していない人に、
その素晴らしさを言葉で説明して理解してもらうなんて事は、ナンセンスなんだけどね。
それに、
どれだけ解説してあげても、
あの父親には、
サザンの良さも怪獣の良さも、死ぬまで解らない気がする。

・・・あ、もう死んでるか(笑)。



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