真水稔生の『ソフビ大好き!』


第81回 「ファンタジーと現実」  2010.10

関東地方や東北地方に伝わる、
雷獣(らいじゅう)という妖怪を御存知だろうか?
雷が落ちた所に現れる、犬のような姿をした謎の生き物である。

『ウルトラマン』の第3話「科特隊出撃せよ」に登場した、
透明怪獣ネロンガの正体は、
おそらくこの妖怪ではないか、と僕は推測する。

300年も前に作られた井戸の中に棲んでいるネロンガは、
その昔、或る侍に退治されたはずの化け物が
その井戸の中で現代まで生き延びていたものである事が、劇中語られる。
そんな民話っぽい設定が妖怪を連想させるし、
透明怪獣というだけあって、
肉眼では確認出来ないところなど、まさに妖怪である。

発電所を襲い、
エネルギー源である電気を吸収した直後に限り姿が見えるようになるのだが、
そんな特徴も、
落雷があった際にだけ人間にその姿を目撃されていた雷獣と、一致している。

つまり、
落雷によって電気を体内に補給していた妖怪・雷獣が、
井戸の近くに発電所が出来た影響で、電気を無制限に得られるようになったため、
体質になんらかの異変が起き、
怪獣・ネロンガと化したのではないか、と考えられるのである。
人間の生み出した文明のせいで、生態が変化してしまったというわけだ。


・・・と、まぁ、
勝手に想像して楽しんでいるわけだが、
今回は、
前回に引き続き妖怪の話、というわけではなく、
はたまた、
現在名古屋でCOP10が開かれている事に因んだ生物多様性の話でもなくて(笑)、
テレビドラマを見て
そうやって空想を楽しむ事が僕は好きだ、って話。

子供の頃から、
テレビドラマの世界に入り込んでいく事がたまらなく好きだった。
作られた世界として鑑賞するのではなく、実在するものがテレビ画面に映っている、と捉える。
そうやって物語を実感するのが、僕のテレビドラマの楽しみ方だった。

今でもそれは変わっていない。
フィクションをフィクションとして、
おとぎ話をおとぎ話として、
そのまま済ませておけない性分なのである。

よって、
映っていない部分や設定が曖昧な部分は、
このネロンガの正体のように空想して付け足し、
自分の中で物語の世界にリアリティが持てるよう、自然と脳が働いてしまうのだ。

もちろん、怪獣は実在する生き物であり、
着ぐるみの中に人間が入って演じている、などというつまらない事は考えない。

ネロンガという怪獣の着ぐるみは、
元々は、東宝の地底怪獣バラゴンであった事は、怪獣ファンなら誰もが知っている事だろう。
それが『ウルトラQ』のパゴスに流用され、
さらに改造されてネロンガになったのだ。
そして、再利用はまだまだ続き、
マグラーになり、最後はガボラになった。
だが、
僕はそういう話は好きじゃない。ただ夢が壊れるだけで、何も面白くない。

 「新しく着ぐるみを作る予算が無かったから、
     過去に使った着ぐるみを部分的に改造して使い回した」

なんて話を、
“俺は裏事情を知ってるンだぜ” みたいな顔で得意そうに話している人を見ると、
なんだか怪獣映画や特撮ヒーロー番組を馬鹿にされた気がして、
イラッとしてしまう。
なぜ、
怪獣が生き物ではなくて着ぐるみである事をわざわざ意識するのか、
なぜ、
そんなつまらない事をいちいち口にするのか、
嫌悪感を覚えてしまうのだ。

姿形が似ている動物を実際に見たら、
生物学的に同じ仲間なのだろう、と誰もが思うはず。
ライオンやトラやヒョウやチータが
皆、ネコ科の動物であるように、
バラゴンもパゴスもネロンガもマグラーもガボラも
おそらく同種の生き物なのだろう、と
普通に考えればいいのだ。
そうすれば、
怪獣という特殊な世界の特殊な生き物が、現実味を帯びて胸に迫ってくる。
すごく楽しい事だ。
なにも無理に着ぐるみの話なんかして、夢を壊す事もなかろう。

ガラモンとピグモンに関してもそう。
宇宙人が地球侵略のために送り込んできたロボットと
地球上に生息していた怪獣が
まったく同じ姿形をしている、という事実を
“着ぐるみの流用” として放っておける人の神経が、僕にはわからない。
それで納得出来るなら、
物語自体がそもそも作り話なのだから、
番組を見てドキドキする事もなければ、怪獣やヒーローに憧れる事もないだろう。

そんな冷めた目で『ウルトラQ』や『ウルトラマン』を見たって、
全然楽しくない。
ガラモンが恐くて震えたり、ピグモンが可愛くて愛しく思ったりした、
幼い日の感情や記憶は、とてもピュアで美しいもの。
僕はそれを、
“怪獣が着ぐるみである” なんて次元の、下世話な話で汚したくない。
シラけた気分になりたくないのだ。

また、
ガラモンが登場した『ウルトラQ』と
ピグモンが登場した『ウルトラマン』は別番組なのだから、
パラレルワールドとして捉えておけばいい、と言う人もいるけど、
僕にはそれも出来ない。
『ウルトラQ』に登場したラゴンやケムール人が、
『ウルトラマン』にも、既知の存在として登場するからである。
つまり、
『ウルトラQ』と『ウルトラマン』が同じ世界の話である以上、
その世界を実感して夢見るためには、
ガラモンとピグモンが同じ姿をしている事に、ドラマの中では語られていない “理由” が必要なのだ。

なので、
例えば僕なら、こう解釈する。

 チルソニア星人がこの星を侵略しようと円盤に乗って地球を視察に来た際、
 多々良島の上空を通りかかったら、
 たまたまピグモンが岩陰をピョンピョン跳ねているのを目撃し、
 それをコピーして作ったロボットがガラモンなのだろう、

と。
・・・一応、つじつまが合うでしょ?(笑)

そうやって自分なりに納得出来る形で
テレビドラマの世界をより現実に近づけて、感情移入する事が面白いのである。
それによって、
怪獣・怪人の恐さも迫力も哀しさも、ヒーローの強さもカッコよさも優しさも、
実感して味わう事が出来る。
そうでなければ、テレビドラマが実写である意味が無い。

少なくとも僕はそうしてきた。
テレビドラマの中の世界を実感してきた。
ウルトラマンにも、怪獣たちにも、科特隊の隊員にも、
しっかりと感情移入して、それらは実在するものとして、いつも夢見て生きてきた。

だからそんな大人になってしまったンだ、と
罵言が聞こえてきそうだが(笑)、
僕はそれを恥じる気持ちなど、まるで持ち合わせていない。
今でも夢見て暮らしている。
かといって、現実から目をそらしているわけでは決してない。
現実をしっかりと受け止めて生きていくには、夢見て楽しむ事が必要なのだ。

ティム・バートン監督の作品に、
『ビッグフィッシュ』というファンタジー映画がある。
“ビッグフィッシュ” とは、誰も信じないようなホラ話の意で、
そんな荒唐無稽な話ばかりをする父親・エドと、それに苛立っている息子ウィルの物語である。


 エドはいつも、作り話を面白おかしく話しては、周囲を笑わせていた。
 例えばそれは、
 子供の頃に
 魔女が棲む館へ行き、その魔女に自分がどうやって死ぬかを予言してもらったという話だったり、
 身の丈が5メートルもある大男と一緒に旅をした話だったり、
 狼男が団長を務めるサーカスで何年も働いた話だったり・・・。

 その作り話の数々は、
 聞く者を愉快で幸せな気持ちにするものだったし、
 ウィルも幼い頃はそんな楽しい父親が大好きだったのだが、
 大人になるにつれ、
 作り話ばかり話している父親に対し、

  “なぜいつも嘘の話ばかりして現実の話をしないのか”
  “何か隠し事があるのではないか”

 という不信感を抱き、父親の本当の姿を見失ってしまっていた。

 だが、
 徐々に、
 それらの作り話が
 まったくの現実離れした嘘ではなく、
 しっかりと現実に即したアウトラインを持つものである事にウィルは気づきはじめる。
 そしてついに、
 父親の作り話が
 歩んできた人生を基に愛と夢で膨らませた話であった事を悟り、父親と和解するのだった。


ウィルと死期を迎えた父親エドが病室で和解するシーンは、実に感動的で、
僕は涙が止まらなかった。
また、
ラストも洒落ていて、
エドの葬式の日、生前エドと親しかった人々が集うのだが、
エドの作り話のモデルになったと思われる人物が続々と登場するのである。
それは、
魔女でも身の丈5メートルもある大男でも狼男でもなかったけれど、
皆、どこかしらにそんな雰囲気や面影を備えた人たちであった。

父と息子の関係を通して、
作り話(すなわちファンタジー)の素晴らしさを、しみじみと伝えてくれるこの映画には、
ファンタジーと現実は表裏一体である事が謳われている、と僕は思う。

ファンタジーを
ただファンタジーとして捉えるのではなく、
ファンタジーは別の角度や位置から見た現実でもある事に気づく事によって、
人生は豊かになっていくのだ、というメッセージである。

ファンタジーを「荒唐無稽だ、デタラメだ」と安易に笑い飛ばすような空虚な感性では、夢は見られない。
夢も見られないような貧しい心の人間が、
現実をしっかりと受け止めて、強く明るく健全に生きていけるとは思えない。

ファンタジーを現実と切り離す事なく楽しむ事、
それが、
夢見る事であり、日々の暮らしを楽しくする秘訣なのである。

ウルトラマンや怪獣を見て「あれは着ぐるみで中に人が入っているンだ」なんて言うのは、
僕に言わせれば、
何か美味しいものを食べている時に、
「これがウンコになるンだ」などと発言するに等しい、低能で無神経で下品な言動である。
言われた方は不快極まりないだろう。

ネロンガを、
使いまわしの着ぐるみではなく、実在する生き物だと思うからこそ、
それと闘い勝利するウルトラマンがカッコいいのであり、その物語が面白く感じられるのだ。

僕は妖怪が好きで、
この世には何か目には見えないものがいるかもしれない、と思っているので、
冒頭で述べたように、
ネロンガは雷獣という妖怪が変異したものではないか、
なんていう空想をしてみたのだが、
それは別に何だっていい。
ネロンガという生き物を、自分が納得いくようにリアリティを持って解釈すれば、
お話の中に感情移入出来るし、楽しめるし、
それが、
心を潤し人生を豊かなものにしていく事にも繋がっていくのだと思う。

楽しくなるよう、幸せな気持ちに浸れるよう、夢見て生活するのが人間なのだし、
ウルトラマンも怪獣も、そのために存在しているのだから。


そんな思いを込めて、
今回は、ネロンガのソフビを紹介しようと思うのだが、
実は、
ちょっとした気分転換から、
コレクションケースの中のバンダイ怪獣の棚を並べ替えしていて、
ウルトラ怪獣シリーズの白色成形版ネロンガ人形を
未だに入手出来ていない事に改めて気づき、

あぁ、そうだ、今月の『ソフビ大好き!』はネロンガについて述べよう!

と、思いついたのがキッカケでもある。
なので、
まずはその、
棚の中を並べ替え中のバンダイ製ウルトラ怪獣シリーズのネロンガ人形から・・・。


  向かって左側の人形が、
  昭和58年に発売された初版。
  全長約23センチ、高さ約13センチ。
  これの白色成形の無塗装バージョンを、
  まだ未入手なのである。
  これまでにTOYショーや専門店などでも何度も見かけたが、
  てっきり購入済みだと思い込んでいた。不覚(苦笑)。
  右側の人形は、
  このシリーズが唯一
  袋に入れられ販売されていた時期(昭和62〜63年頃)のもの。
  全長約19センチ、高さ約12センチ。
  同じ造形でも大きさが異なると、
  小さい方はかなり見劣りがしてしまう。



  その後、
  平成3〜4年頃だったと記憶しているが、
  こんなイッちゃってるカラーリングで発売されていた時期もありました。
  “電気を食う” という特徴のイメージを膨らませて、
  感電とか漏電とか、そんな危険な状態の心象を表現した彩色だったのだろうか?(笑)

  3体とも、
  成形色と高さは同じ(約12センチ)だが、
  向かって右端の人形のみ、尻尾の長さが異なるので、
  全長に差が出ている。
  左端の人形と真ン中の人形は約19センチで、尻尾の長い右端の人形は約22センチ。
  また、
  左端の人形のみ、塗装色が異なる。
  こういった違いを見つけ出し、揃えて所有するのが、ソフビコレクションの醍醐味なのである。

  そして、
  よりリアルな造形へと進化していくのが、バンダイのウルトラ怪獣シリーズ。
  平成7年に、
  現在の、重量感満点の新造形にリニューアルされている。
  下の写真の、向かって左端の人形が、それ。
  真ン中の人形と右端の人形は、それぞれ平成12年と19年に、カラーリングが変更になって発売されたもの。
  3体とも、
  全長約21センチ、高さ約15センチ。


こちらは番外編、
と言うか、
市販品の色を変えて限定発売する、という
平成ソフビの “お約束商品”。
ともに全長約21センチ、高さ約15センチ。
向かって左側の人形は、
平成10年に、
ウルトラマンフェスティバルの会場内で限定発売されたもので、
氷菓子みたいでなんだか涼しげなネロンガ。
右側の人形は、
平成11年に、
雑誌ハイパーホビーの誌上限定で発売されたもの。
 
    「お前たちを儲けさせるために
       僕はソフビを集めてるンじゃないないぞ!」

  と、心の中でメーカーに叫びながらいつも買ってしまう(笑)こういった限定品ではあるが、
  このクリアーソフビによる成形は、
  『ウルトラマン』の本放送から約30年の月日を経て、
  初めての、“透明” をイメージしたネロンガ人形の登場となるわけで、
  意義のあるカラーリングであったし、コレクターやファンにとっても、嬉しい事だったと思う。


  こんなふうに並べて写真なんか撮っちゃうと、
  1日もはやく白成形版を手に入れなければ・・・、という入手欲が
  一層かきたてられてしまう(笑)。


これは、
同じバンダイ製でも、
ウルトラ怪獣シリーズではなく、食玩。
これまでにも何度か紹介している、
平成ソフビの中で
僕が最も好きな “ソフビ道” というシリーズの中の1体。
全長約12センチ。

カッコいい。


  ネロンガは、魅力的な怪獣である。
  テレビ番組における特撮作品のパイオニア『ウルトラマン』の初期の怪獣だけあって、
  怪獣はこういう生き物です、という見本のような存在と言える。
  その容姿、その鳴き声、その暴れっぷり、
  見事なまでに “怪獣” していて、気持ちがいい。

  実物をリアルに再現する事を目的に造形された、
  これら平成のソフビたちは、
  実物のネロンガの、
  そんな、怪獣としてド真ん中ストレートな魅力に比例するかのように、
  劇中の迫力を真っ直ぐに伝えてくれていて、
  どれも、気持ちがスカッとするくらいカッコいい。
  言うなれば、
  直球勝負な怪獣人形である。


  そして、
  その直球勝負の平成ソフビに相対するのが、
  多種多様な変化球を駆使して勝負する昭和のソフビ、言わずと知れた、マルサン・ブルマァクのソフビ怪獣人形である。
  



  では、直球勝負には無い “旨味” を感じさせてくれる、僕のそんな愛しき幼なじみたちを紹介しよう。

  マルサン製。全長約23センチ。

  成形色は3体とも同じこげ茶色なのだが、
  向かって左端の人形(初版)は、紺色でくるみ塗装を施し、そのこげ茶色が覆い隠されている。
  これは、
  パゴスの着ぐるみがネロンガの着ぐるみに流用されたのと同じで、
  パゴス人形の頭部を挿げ替えてネロンガ人形にしてあるので、
  それを誤魔化し、
  パゴス人形とネロンガ人形をまったく別の人形に見せるための処置だったンだと思う。
  下の写真、向かって左側がパゴス人形。


  ・・・って、
  だからそういう夢が壊れる話はしたくないンだってば!(笑)

  でも、
  そんな細かい事を気にしなくても
  怪獣人形はバンバン売れるし、注文も殺到して、いちいちくるみ塗装なんて面倒な事してられないから、
  発売時期が後のものは、塗装面が少なくなっているのだと思われる。
  こういう傾向もまた、マルサンソフビの特徴と言えるだろう。

  後期生産の人形よりも初期生産の人形の方が人気が高いのは、
  作られた時期が古いからとか、現存数が少ないからとか、
  そんな骨董的な理由よりも、
  丁寧な仕事がしてある事による品物そのものの出来の良さが、
  純粋に、マニアやコレクターの心を和ませるからだと、僕は思う。

それにしても魅力的だ。
充血しているようでちょっと恐い目、
舌を覗かせた、いたずら小僧みたくお茶目な顔の表情、
伝統的な力士の理想像・“あんこ” を思わせる、
でっぷりとしたお腹・・・etc.
怪獣という生き物の、
“迫力” と “愛嬌” を絶妙な加減で混ぜ合わせ、
かつ、全体から温もりが感じられる、という仕上がり。
マルサンソフビの素晴らしさが、ひと際胸に沁みる人形である。


これは、
ブルマァク製ミニサイズのネロンガ人形。
ともに全長約10センチ。

こげ茶色の方を
暗い井戸の中に潜んでいるネロンガ、
水色の方を
電気を吸収して姿を現したネロンガ、と捉えるもよし、
逆に、
水色の方を
冷たい空気や水をイメージして井戸の中のネロンガ、
こげ茶色の方を
地上に現れ大暴れしているネロンガ、と捉えるもよし。

こんな小さな人形でも、
自由に空想すれば無限に大きくなるのだ。


これは、
昭和55年〜昭和57年頃に
円谷エンタープライズという会社が発売した、
ブルマァク製ネロンガ人形スタンダードサイズの復刻品。
全長約23センチ。

倒産してまだ間もないのに、
時代遅れの人形を
こんなド派手なカラーリングで別会社から世に放つブルマァクの、
その無神経なまでのしたたかさが凄い。
人生に疲れている中年オヤジは、是非とも見習うべきスピリットである(笑)。



僕らの世代にとっての怪獣人形は、
こういう変化球、つまりデフォルメ造形や実物とは異なるカラーリングが当たり前だったので、
子供の頃、
そのデフォルメネロンガで、劇中のネロンガを再現して楽しんだ。
そのデフォルメネロンガを、本物のネロンガに見立てたわけである。
形や色が実物の着ぐるみとは異なるからといって、
これはオモチャのネロンガだ、なんて思いながら遊んだ子供は、一人としていなかったと思う。
あくまでも、
ソフビ人形のネロンガが実物のネロンガだったのだ。

つまり、
ファンタジーと現実が表裏一体である事を、
デフォルメ造形や自由なイメージによるカラーリングが、無意識のうちに理解させてくれていたわけである。
実物に似ていない分、
空想を付け足す事が当然のごとく必要となるのだから。

リアルなソフビしか知らない世代に、
これでネロンガを実感して遊べと言っても、
厳しいものがあるかもしれない。
直球なら打てるが、カーブやフォークにはタイミングが合わず三振するバッターのように。

また、
実物に似せる事よりも、
愛嬌あるデフォルメを施す事を優先した造形やカラーリングである、これら昭和のソフビたちは、
怪獣という生き物の迫力や恐さだけでなく、
愛くるしさや哀しみなどといった内面的魅力も表現されているので、
まさに、
夢見る気持ちの化身、とも言える。

僕が、いや僕らの世代が “怪獣” というものに特に惹かれるのは、
ただ単に『ウルトラマン』を見て育ったから、というだけではなく、
マルサンやブルマァクのソフビ怪獣人形たちが、
夢見る気持ちの化身として、
ファンタジーと現実を切り離さない事の楽しさを教えてくれたからでもある、と僕は思う。


平成ソフビのように怪獣の魅力がストレートには伝わってこないが、
昭和のソフビには、
夢見る事や空想する事の楽しさ・素晴らしさが、ぎっしりと詰まっているのだ。

マルサン・ブルマァクのソフビ怪獣人形で
実際に遊んで育ったソフビコレクターである事の、僕の誇りがそこにある。




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